2015年2月9日月曜日

エラスムスの最期(Part2. ヴェネツィア編)


 この街について書けることは少ない。

 書きたいことは山ほどあるが、言葉にするのがむずかしい。ヘタな言葉じゃまったく歯がたたないような、そんなところなのである。

 ぼくがヴェネツィアにいたのは2009年から10年にかけてのおよそ1年間。だから、だいたい5年前ということになる。
 そのころのぼくはまだ20代になったばかりで、世界は希望に満ちあふれ、あらゆるものは新鮮な光に包まれていた──というのはウソだが、どこからどう見ても現実ばなれしたこの島ですごした時間がぼくのふらふら病に大いなる拍車をかけたことは間違いない。ヴェネツィアに行ってなければ、いまごろプラハにいることもなかっただろう。たぶん。

 留学中はIsora di San Servolo サン・セルヴォロ島というところに住んでいた。そう、島に住んでいたのである。もちろんヴェネツィア本島のことではなく、ちいさな、ほんとうにこぢんまりとした、15分もあれば歩いて1周できるような島だ。ぼくらは島に住み、島で勉強した。じつはこの島全体が留学先の大学の敷地だったので、そこには校舎だけでなく、元精神病院だった寮兼ホテルや、ちょっとした運動場や、なにに使うのかよくわからないイベントスペースや、マズくて高い食堂や、わりと感じのいいバールがあった。

 時は下って2015年の1月2日。

 プラハでの年越しそうそう、ぼくはTとともにヴァネツィアに渡った。3日間の滞在、いわば里帰りの旅である。Tはセルヴォロ時代のルームメイトだったから、もちろんこの小島にも立ち寄った。じっさいにはあまりにも不便なので(本島との唯一の交通手段である水上バス vaporettoが、なんと1時間に1本しかなかった)、当時は半年で本島に引っ越したのだが、この島での思い出はどうしようもなく身体に刻みこまれている。たとえば真夜中に忍び込んだ教室。そこで観たオペラ。開け放った窓からアドリア海への立ちション。
 いくつかの店がなくなったり違う店になってたりはしたものの、ヴェネツィアは5年前となにも変わっていなかった。相変わらず美しかった。ただ、ぼくが5年間こころに思い描いていたイメージより、本物はずっとちいさな街だった。道はより狭く曲がりくねり、建物はより低くせめぎあっている。まるでミニチュアのなかを歩いているようだった。ヴェネツィアは、じっくり時間をかけて着々と、ぼくの頭のなかで1.5倍ほどの大きさにふくらんでいたのだ。

 ところで、この街についてイタリア人が話すとき必ずといっていいほど使われるフレーズがある。

 È diverso.

 今回はじめて出会ったイタリア人も漏れなくそう言っていた。簡単な言葉だが、日本語にはなぜか訳しにくい。英語にするとIt's different.となる。

 È diverso. ほんとうにそうなのだ。言葉の最高に精確な意味において、diversoなのである。なにか他のものから隔たっているということが美しさと結びつくということを、この島ほど強く訴えかける場所はない。

 異なるということは、孤独ということでもある。深い孤独は、おなじく孤独なものを引きよせ、ときには死を引きよせる(「ヴェニスに死す」のグスタフがそうであったように)。それほど大げさでなくても、この島に暮らしていると、だれもが時が止まったように感じるだろう。この島を動くのは、運河をながれる深緑の水と、なにか語りたげに吹きさるアドリア海の風と、その音に耳を傾けるあなただけ。イタリア本土からも孤立したこの島は、そこに住む者、訪れる者をひとり占めにしてしまう。

 この街では、ひとりひとりが否応なくヴェネツィアに向きあわされる。そうなったが最後、この街はあなたをけっして離さない。水と空気、ヒドいときには島の3分の1を沈めてしまう高潮 Acqua altaをとおして、それぞれのヴェネツィアを沁みこませてしまう。
 使い古された比喩でいえば、この島は、とんでもなくワガママで、独占欲旺盛で、それでいてどうしても憎めないファム・ファタールなのである。そして言うにおよばず、ぼくはいまだに彼女に振りまわされている。


(写真は夕刻のヴェネツィア。きれいですね。きれいなんです。今回はブログのタイトルに反して、堂々と浮気してしまいました。ごめんねプラハ!)

2015年1月29日木曜日

エラスムスの最期(Part1. 年越し編)


 なぜかここにいない人のことばかり書きたくなる。だれかがいなくなってしまったこと。いまそのだれかがいないこと。筆不精のぼくがなにか書く気になるのは、もしかしたらほとんどそんなことについてなのかもしれない。

 この1ヶ月で何人かの大事な友人に再会し、何人かの大事な友人がこの街を去った。ここずっとなにも書けなかったのも、そういうことで忙しかったからだ。ある人が目の前にいると、なかなかその人について書けない。別れが去ってはじめて、別れについて書くことができる。
  でも、いつも思うのだが、去ってしまったものについて書くのはぜったいに追いつけない相手にレースを挑むようなものなのだ。だからあまり差をつけられてしまわないうちに、再会のほうから書いていこうと思う。

2014年12月30日。妹とSの誕生日。
 夜8時頃、寮をでて、空港へむかう。日本から遊びにきたTを迎えに行くのだ。Tは5年来の友人。今はT市のシティー・ホールで働くオペラマニアだが、ともにヴェネツィアに留学した仲間であり、元ルームメイトでもある。
  そとは雪が降っている。澄んだ大気中でも白一面の道路でも、ところどころ凍った雪が街灯に反射して鉱石のように光る。最寄駅でバスを待つあいだ、粉雪が牡丹雪に変わり、傘に降る音もやわらいだ。
 じつはぼくの住む寮 Kolej na Větrníkuは空港に近く、バスに乗ると30分かそこらで着いてしまう(これだけが取り柄の寮である)。空港でさらに半時間ほど待つと、Tがゲートから出てくる。留学直前にも一度会っているので「感動の再会」というわけにはいかないが、なにより元気そうだ。その証拠に、顔が丸くなっている。

12月31日。大晦日のプラハ。
 この日の白眉はなんといっても街中で打ちあげられる花火だ。これほどまでにすごい花火は見たことがなかった。
  花火のクオリティーがすごいのではない。その数と、無秩序っぷりがすごいのだ。11時を過ぎたあたりから、いったい誰がどのように仕掛けているのかしらないが、とにかくランダムに、いたるところで打ちあがる。ふつうの爆竹もあるにはあるが、ほとんどは轟音をともなうかなり本格的なもの。しかも店の窓ガラスに直撃しようがお婆さんが驚いてすっ転ぼうがお構いなし。飛びかう悲鳴と歓声、通りを覆う煙、厳重に武装した警官、そして火薬の匂い。ふつう日本人がイメージする優雅な「花火大会」とはほど遠く、空気はむしろ戦場である。
 ぼくらはこの異様な雰囲気にアテられ、かんぜんに浮足だって、ムーステックに溢れる人々とともにカウントダウンし、屋台で買ったシャンパンで新年を祝う。どこから来たかもわからない外国人が(イタリア人がやたらといたのはたしかだが)笑顔でHappy New Year! と言ってくる。 海外での年越しはこういうところが楽しい。5年前のロンドンを思いだす。Šťastný nový rok! もちろんチェコ人の声も聴こえてくる。

 30分ほどカメラ片手にヴァーツラフ広場を練り歩いたあと、国民劇場のまえで仲の良い友人たちと合流。ドイツ人Aとその彼氏の同じくドイツ人M、イギリス人N、チェコ人Kとその彼女のイタリア人V、さらにチェコ人AとM。これにぼくたち日本人2人を合わせて計9人。けっこうな大所帯となった。
  ぞろぞろとトラムに乗り、ブルダヴァを越え、丘をすこしあがったカメニツカーで降りる。近くのパブに入り、いっしょにビールを飲む。われらがドイツ人カップルの飲みっぷりは流石なもので、重度の西ヨーロッパ人嫌いだと思われるチェコ人Aのメガネにも適った様子(「お前ら、おれが会ったなかで一番良いドイツ人だよ、ハハハハハ!!」「えっ、ほかのドイツ人? や、ドイツ人ってのはたいていどいつもこいつも……」)。
 その後、店にいた酔っぱらいと一悶着おこしてから、フランス人Chと合流するという名目でレトナー公園へ。昨日から残る雪でまっ白、深夜は3時を回っていたと思う。ものすごく寒い。さんざん彷徨ったあげくChに会うことはできず、悪天により美しいプラハの夜景をおがむこともできず、おまけに(一向に成長しない)ぼくはまたもや飲みすぎで吐くハメになった。

 朝6時ごろ、みんなにさよならを言うまえにひとり汚れた口を雪で洗う。丘のうえからかすかに見えるヴルタヴァが泪に滲む。バカにはちがいないが、なんとなく粋な気分で1日を終える。

2015年1月1日。元旦。
 目を覚ますと午後2時をとっくにすぎている。この日はミュシャ(チェコ語に忠実な発音では「ムハ」)の「スラヴ叙事詩」を観にいく予定だったのだけれど、時すでにおそし。茫然としつつも食欲には逆らえず、食べものをさがしに寮をでる。が、スーパーからカフェから、店という店はどれもしっかり閉まっている。しょうがないので部屋にかえり、クリスマス・プレゼントとして日本から送ってもらった即席麺を食べることに。「どん兵衛」と「ラ王」。立派な「年越しそば」である。なんとか胃を落ちつかせたあと、フランツ・カフカゆかりのカフェ・サヴォイまで足をのばし、お茶をする。正月から観光客まみれだが、さすがに良い店だ。カフェをはなれ、Tがカンパ美術館に行っているあいだ、ぼくは課題のエッセイを書くつもりでいったん寮へもどり(失礼!)、仮眠(失礼!!)。
 5時半ごろ、再度Tと合流し、予約してある行きつけのレストラン Konviktにむかう。Tにはここで筆者イチオシの「ブタひざ丸焼きVepřové pečné koleno」 を食べてもらった(猛々しくナイフのささったこの巨大な肉塊はぼくの大好物で、3日で2つ食べたこともある)。破裂寸前の腹をかかえて、つづくは市民会館でのニューイヤー・コンサート。ドヴォルザーク(チェコ語に忠実な発音では「ドヴォジャーク」)のスラヴ舞曲をぶっつづけで演奏するという珍しい公演だった。年明けから郷愁あふるるスラヴ的なものに触れることができ、感慨深かった。

 コンサートのあとTはまたKやAと会いたがったが、さすがにみんな二日酔い気味で、そとを出歩ける気分ではないらしい。というわけで、元旦の〆は、現代チェコを代表する作家ボフミル・フラバルが足しげくかよったことで知られるホスポダ、U Zlatého Tygraへ。ぼくの知る限りプラハで一番のビールをだす居酒屋である。
 「大」がつくほどの酒飲みのTも、ここのプルゼニュスキー・ブラズドロイには舌を巻いていた(ちなみにプラハ滞在中の彼のビールの飲みかたは常軌を逸している。席につくがはやいが500mlのビールをオーダーし、ウェイターが食事の注文をとるまえにそれを飲みほしてしまう。当然ながら、料理が来るときにはもう2杯目をなかば飲み終えている)。どうしたって観光客にしか見えない日本人ふたり組だが、地元のおっさんだらけの店内で閉店までねばり、部屋にかえって上機嫌で眠る。

1月2日。朝。
 Tとともに飛行機に乗ってイタリアへ。5年ぶりのヴェネツィアが待っている。


(写真は1月1日、餓死寸前の状態で撮影したもの。シリーズ「エラスムスの最期」、まだ続きます。)

2014年12月24日水曜日

21日の日記:偶然について

 
 21日の日記。


 ここ数日はいろいろなことがあった。今日から年末までは部屋でひとりだ。
 クリスマスのため、仲の良いエラスムス(ヨーロッパの交換留学生)の友だちのほとんどはじぶんの国へ帰った。ルームメイトのカシウスも。
 昨日はカシウスとKozelというぼくの好きな銘柄の黒ビールを飲み、パプリカ味のポテトチップスを食べながら映画を観た。彼にとっては初めてだが、ぼくにとってはたぶん3回目のWoody Alen "Annie Hall"。ふたりしてよく笑い、映画のあとはいつも通り夜おそくまで話した。

 留学を終えたらそのあとどうしたいのか。ぼくらはどこでなにをしているだろうか。カシウスは来年のいまごろ、スペインには居たくないという。フランスの大学院か大学で、フランス語を勉強したい。このまま順当に行けばいい仕事がもらえるのは間違いないけど、将来数学者としては働きたくないんだ。今は数学より人間と言葉と文化に興味がある。お前にも少しは責任があるんだぜ、テリー。お前と話してるとけっきょくそっちの話になるし、フランス語だって関係あるし、ほら、すくなくとも今おれがエンリーケ・ビラ=マタスを読んでるのはお前のせいだよ。彼は今朝「別れのポメッロ」と洋菊を残して部屋を去った。

 昨日の朝は偶然Lと会った。携帯のクレジットが切れたのでNárodní TřídaちかくのO2にチャージをしに行き、気分がよかったのでヴルダヴァ川沿いのSmetanovo nábřežíを歩いていると、むこうから彼女がやってきたのである。"Hey, this is crazy!!"

 じつはLとは一昨日も一緒にいて、この日の4時発の飛行機でパリに帰るという話をしていたのだった。「朝起きて天気が美しかったから散歩しようと思ったんでしょ?」("the weather is beautiful." Lはそう言った。日本語として不自然だが、直訳のまま残す。)
 8時半すぎだったと思う。この日の前日(つまり19日の金曜日)、Lからの電話があった。前話していたJazz Dockという店に行かないかとのこと。As soon as possibleというので9時半集合ということにして、急いで支度をして寮をでたのはいいが、なんと向こうは30分遅刻すると言ってきた。さすがラテン系、"Don't be late"とはよく言ったものである。

 国民劇場の外にある冷たい石のベンチに座り、勢いよく降る雨を眺めて時間をつぶしたあと、すぐそばの軍団橋を渡っていると、大量のカモメが大きな群れをなして飛んでくるのが見えた。黒く曇った空を覆うほどたくさん白い鳥型の穴があく。なにごとかと思って飛んできた方向に目をやると、川下のイラーセク橋あたりから小粒の花火が打ち上げられていることに気がついた。花火の発射音に驚いた彼らは、川上のカレル橋方面へちいさな大移動をはじめたのだ。カモメだけでなく、カラスや鳩も群れに交わる。橋から橋へ。人間ならさぞ迷惑がるだろうが、変化に柔軟な彼らは面倒な素ぶりひとつ見せず、颯爽と夜の風を切っていった。

 Lは遅刻に飽きたらず道に迷ったようで、ぼくはさらに30分ほど待たされた。その間、犬のフンを踏む、携帯のクレジットが切れるなどのハプニングのお陰で退屈こそしなかったが、1時間遅れで向かったJazz Dockでのコンサートはよくあるポップ音楽でぜんぜんJazzではなかった。まったくついてない。ぼくらは仕方なく近くのホスポダへ行き、だらだらと色々なことを話した。両親について、プラハについて、メランコリーについて。1月しなければいけないことについて、今までにした一番バカなことについて、こっぴどい失恋について。ちなみに彼女はこっぴどい失恋のあと、クンデラをたくさん読んだらしい。あまりオススメはしないが、ぼくも読んだ。というか(忘れかけていたが)、Lの父親は元クンデラの教え子で、3ヶ月前、彼女とはじめて会ったときもその話をしたのだった。世の中、じつはクレイジーなことだらけなのである。


 いつからかぼくは偶然に身を任せることが半ばじぶんのスタイルになってしまっていて、そのためにちょっとやそっとの偶然では驚かなくなった。それこそ小説の読みすぎかもしれないが、「あ〜、まぁそんなこともあるよね」という感じで、自然に受け入れてしまうようになった。でも、ほんとうの偶然はやはり人をまごつかせるものだと思う。とくにそれが意味をもちはじめ、なにか別のものへと姿を変えつつある場合には。



(写真はCeletná通りからの旧市街広場。もうクリスマスですね。Veselé Vánoce!)

2014年12月10日水曜日

チェコの裏切り者の研究者


 「なんでクンデラを選んだの?」


 おなじ質問を何回されたかわからない。まがりなりにも文学を研究している人間、とくに1人の作家、それもまだ評価が完全に定まってはいない現代の、というか現役の作家を研究している人間にとって、この質問はいわばサダメのようなものである。フロベールやセルバンテスやドストエフスキーを研究するのに、表立った理由はいらない。

 
 「彼の作品が好きだからです。」

 これが一番シンプルな答えだ。でもそれだけじゃ相手は納得してくれないから、仕方なくもごもごとなにか喋ることになる。この「もごもご」が論文になったり本になったりするのだが、実はこの国でミラン・クンデラについてもごもごするのはことさら厄介だ。


 先週末はチェコ第2の都市ブルノに行った。日曜日にチェコ人むけの日本語検定試験があるので、その試験監督のアルバイトがてら街を観光してしまおうというわけだ。

 土曜の朝6時に起き、カシウスと「別れのポメッロ」(ポメッロとはスペイン語でグレープフルーツのこと。日本のものより大きくて美味しい)を食べ、トラムの駅へ走る。プラハ中央駅から電車で2時間半。車内では翌々日のプレゼンに備えて『存在の耐えられない軽さ』を急いで読みかえした。現地はあいにくの雨だったが、感じのよいホステルに泊まれ(Hostel Fléda)、すばらしいレストランに当たり(Hostinec U Semináru)、海外で日本語の試験を監督するという得がたい経験ができた(試験内容はかなりむずかしかった。留学仲間のKHさんが言うように、たしかに「日本人でも空気の読めない人は正解できない」だろう)。
 だが、まさかブルノでこのサダメられた質問にでくわすことになるとは思っていなかった。皮肉にも、クンデラの生まれ故郷であるブルノで。

 「なんでクンデラを選んだの?」


 午後5時半ごろ、ちょうどメインステーションでプラハ行きの電車を待っているときだった。試験を受けたチェコ人の学生や、おなじ監督業務にたずさわったチェコ在住の日本人がホームに集まっている。今回の相手はチェコで30年以上も暮らし、チェコ語の通訳などをしている男性。カレル大学を卒業した最初期の日本人の一人だという。ぼくは手袋をした手でダッフルボタンをいじくりながら答えた。


 「う〜ん、たまたま彼の小説を読んで好きになったっていうのが一番素直な理由ですかね。ぼくは大学でチェコ語専攻だったわけではないので、チェコから入ったんじゃないんですよ。」


 「そうか、今でもチェコの60年代を知ってる連中のなかには、『アイツは逃げたんだ』って言うやつもいるよ。」


 ぼくは苦笑いを浮かべ、黙ってうなずいた。これを境にクンデラの名前は会話から消えた。


 はっきりいって、ミラン・クンデラはチェコで嫌われている。しかも残念なことに、それには当然といっていい理由がある。フラバルら多くの同時代作家と違いフランスへ「逃げた」こと、秘密警察への密告疑惑があること、移住してしばらくしてフランス語で書き始めたこと、最近はじぶんが「フランスの作家」として認識されるべきだと発言しており、ついに自作品のチェコ語への翻訳を禁じはじめたということ、加えて極度のマスコミ嫌いなうえに、本人自身、かなり「むずかしい」性格の持ち主だということ。

 つまり、控えめにいっても、チェコ人にとってクンデラは「嫌う理由の宝庫」なのだ。チェコ人だけではない。チェコ通の外国人もたいていクンデラを嫌っている。一方クンデラにしても、彼らにたいして悪びれる様子は微塵もない。むしろそんな母国との関係を作品に生かしている。裏切り者としてのじぶんを強く意識している。

 裏切り。じっさい、クンデラにとって裏切りは重要な文学的テーマである。彼の裏切りへの過剰とも思える身ぶりには、どこか強く人を惹きつけるものがある。そこでは自己肯定と自己否定が一緒くたになっている。


 いずれにせよ、クンデラについてなにか書くのであれば、彼の裏切りに負けないように書かねばならない。この国にいると、そんな思いが日に日に強くなる。


 

 
(写真はブルノのカフェから見上げる聖ペテロ聖パウロ大聖堂。この聖堂、迫力がすごいんです。)

 

2014年11月30日日曜日

日本人にとって外国語とはなにか 〜わたしの言語図〜


 昨日、夢のなかではじめてチェコ語を話した。記念すべき日だ。

 ぼくは地元である神戸の田舎にいる。天気は晴れ。自宅から急勾配をくだって最寄りのバス停へむかう緑道を歩いていると、なぜか(むろん現実にはありそうもないが)観光客らしい大柄の白人男性4人組と出会う。彼らは道に迷っているようなのだが、どうやら英語をほとんど話せないらしい(これもあまりありそうにない)。"Where are you from?"がやっと通じたところで、彼らがポーランドの出身だということに気づく。そう知るがはやいが、ぼくは目を輝かせてチェコ語で話しだすのである。むろん流暢にしゃべれるはずはないのだが(そもそもぼくの今のチェコ語力では「流暢なチェコ語」を夢のなかで表現することすら困難である)、極東の島国でチェコ語が使える機会をみつけて嬉しくなり(ポーランド語とチェコ語はおなじ西スラヴ語群に属しており、お互いかなりの程度で意思疎通ができる)、片言のくせにとくに物怖じすることなくチェコ語をしゃべっていた。誇らしい気持ちで、ぼくは無事かれらを目的地に送りとどけることに成功する。

 ちぐはぐな夢である。舞台は日本。しかも神戸の田舎。言語はチェコ語。しかも相手はポーランド人。でもこのちぐはぐさが、現在のぼくの状況をうまく表現しているといえなくもない。

 授業ではチェコ文学を英語で読んでいる。クラスにチェコ人はひとりもおらず、代わりに英語のネイティヴが幅を利かせている。フランス語を勉強しているのに、フランス人とは英語で話す。でも部屋に帰ると偉そうにフランス語でチェコ出身の作家クンデラを読み、偉そうにイタリア語でプラハについて読み("Praha magica")、偉そうにスペイン人と英語でアメリカ人の悪口をいう。チェコ語を話そうとすると、いまだにイタリア語がしゃしゃりでる。

 はっきりいって、頭のなかはもうごっちゃごちゃである。

 しかも残念なことに、ぼくはいわいる「言語好き」ではない。世の中にはほぼあらゆる言語に、というか外国語そのものに汲めども尽きぬ興味があり、その習得に尋常でない熱意をもち、おかげでいくつもの言語をいとも短期間に習得できるというような人間がいる。残念ながら、間違いなくぼくはそういうタイプではない。外国語それじたいに関心をもったことはないし、言語学習がぼくにとって純粋な喜びであったことは一度もない。ぼくが積極的に「選んだ」といえる言語はイタリア語だけで、ほかは完全に、身も蓋もない言いかたをすれば、「なりゆき」である。
 なりゆき。もちろん悪い意味じゃない。むしろ「なりゆき」以上に自然な言語学習の流れはないとすら思う。だが同時に、日本人であるぼくがこのような「なりゆき」をもつこと自体、ひとつの奇跡といっていいぐらいだとも思う。なぜなら、ふつう日本人が外国語を勉強しようというとき、そこにはどんな「なりゆき」もないから。考えてみれば不思議なことだが、英語を勉強する「なりゆき」すら、ほとんど意識されていないはずだ。ある外国語を話すことがなぜある外国人にとって「当たり前」であったり「必要」であったりするのか、学校の先生はぜんぜん教えてくれない。 

 最後に、言語について大事なことをもうひとつ。こういう環境で暮らしていると、じぶんにとって母語がいかに大切なものかがよくわかる。日に1度は日本語を読まないと落ち着かないし、2・3日も日本語を話さないと、文字通りじぶんがじぶんでなくなってしまうような気がする。一昨日もそんな気分になって日本人の友人たちに救援をもとめた。喜ばしいことに、最近ぼくはチェコにあって完全にビール中毒なのだが、母語もお酒とおなじく禁断症状があるらしい。

 ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは、かつて「わたしの母国はポルトガル語である」と言った。もとはといえば大航海時代に根のある言い回しらしいが、ペソアの意図はその時代から遠いところにあるように思う。無限の海を越えていく広さとしての世界言語ではなく、むしろぎりぎりで大地にとどまる狭さとしての国語。
 日本語以外にぼくを日本を繋ぎとめているものなんて、じつはほとんどないんじゃないか。最近は、そんな気さえする。



(写真はレトナー公園。こちらはもうクリスマスのイルミネーションがはじまっています。)

2014年11月22日土曜日

アウシュヴィッツの肩すかし


 更新が滞ったのには理由がある。先週は15日から17日までポーランドを旅行していたので、その準備などもあって、記事を書く時間がなかったのだ。むこうではクラクフに2泊したのだが、旅の目的はもっぱらアウシュヴィッツだった。

 アウシュヴィッツ。世界中の人間が、ここで何が起きたか知っている。他の観光客の例に洩れず、ぼくもこの場所について何を知っていて、何を知らないのかを確かめるためにアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪れた。
 11月17日月曜日。とても寒い日だった(最高気温が4℃だったらしい)。雨にこそ降られなかったが、始終どんよりしたぶあつい雲のした、深い霧につつまれ凍えそうになりながら、午前11時から午後4時半まで、ほぼ休憩なしで歩きつづけた。この日の寒さと疲れこそが、日々ぼんやり暮らしているぼくとアウシュヴィッツを繋ぐ唯一のものであるように思えた。ぼくをこの地に呼びだした当のものが、ここにはないという気がした。

 だがじっさい、今よく考えてみても、アウシュヴィッツとぼくのあいだには何かしら縁があるはずなのだ。

 ひとつ前の文章でも触れたが、ぼくとイタリアを引きあわせた直接的なきっかけは、13歳のときに観たロベルト・ベニーニの映画『ライフ・イズ・ビューティフル』だった。これはビルケナウに強制収容されたイタリア系ユダヤ人の家族の物語。映画のなかば、収容所の現実の過酷さから息子ジョズエを守るため、陽気でおしゃべりな父グイドはある嘘をつく。ここで行われているのはとてつもなく大規模なゲームで、いい子にして、泣いたり、ママに会いたがったりしなければポイントがもらえる。ゲームだということは知らないフリをしなくちゃいけない。1000ポイントたまったら本物の戦車に乗って家に帰れるのだ、と。

 これに加えて、ぼくにチェコ留学という数奇な運命をもたらした(お馴染み)ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』。おもに1968年の「プラハの春」を背景に書かれたものだが、じつはこの本のなかにも、語り手「私」による強制収容所への言及がある。
 そう昔の話ではなく、私自身も信じられないという感覚をおぼえながらこんな事実に驚いた。ヒトラーに関するある本の頁をめくっていたとき、彼の数葉の写真をまえに私は感動していたのである、その写真が自分の幼年時代のことを思いださせてくれたのだ。私は戦時中に幼年時代を過ごし、家族の者たちが何人もナチスの強制収容所で死を迎えていた。だが、自分の人生の過ぎさった時間、もう二度ともどってこない時代を思いださせてくれたヒトラーの写真に比べれば、彼らの死などなにものだったろうか? 
(『存在の耐えられない軽さ』西永良成訳、河出書房、2008年) 
 この部分は語りの技法的にみてもおもしろいところだが、問題はやはり、「私」が言っていることの内容だ。じぶんの家族を強制収容所へ送り込み、彼らを殺した「張本人」であるヒトラーの写真をみて「感動」するということなど、あってよいのだろうか? 少なくとも、およそ世間一般のモラルに反していることは確かだ。しかし語り手「私」は、このヒトラーの写真に感謝すらしてしまう。「私」にとって子供時代の記憶はかけがえのないものであり、この写真がなければおそらく永遠に思いだすことのないものだった。そのかけがえのなさ−−つまりその重さ−−を前にすると、いわばすでに「歴史的事実」となった家族の死は後景にしりぞき、ぼやけて、軽いものとなってしまう。
 ここには強烈な価値観の反転がある。ほんらい誰かの死、あるいは過去の事実ほど「重い」ものはない。そういったものには変更が効かないので、ぼくたちはただそれを黙って受けいれるしかない。しかし上の語りで「私」は、重いはずの「死」や「歴史」より前に、現在という寄る辺ない時間に生きる個人が持つもののうちでも、ひときわ頼りない「記憶」を置くのである。

 クンデラの「私」はその挑発的な語り口からしておおくの読者の反発を誘発するのだろうが、じつは『ライフ・イズ・ビューティフル』も、一部の作家や批評家から痛烈な批判を受けている。アウシュヴィッツという筆舌に尽くしがたい歴史の現実を矮小化し、いわば「ポップ」にしていると。

 現代イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、『アウシュヴィッツの残りのもの』という(むずかしいが)すばらしい本のなかで、強制収容所からの生還者の「証言不可能性」について書いている。ごく簡単にいえば、アウシュヴィッツやビルケナウを生き延びた人間が経験したことがらはあまりにも「非現実的」なので、言葉にすることはできない(し、仮にできたとしても誰にも理解されないだろう)ということだ。
 たしかに世の中には、言語化されること、理解されることを拒む事実が存在する。でもだからこそ、言葉が必要なんじゃないだろうか。言葉にならないかもしれない、理解されないかもしれない。そこに言葉の可能性がある。そもそも言葉がないのであれば、そのすき間にある「言葉にならないもの」もないのだから。

 たぶんぼくは、クンデラやベニーニの「軽さの技法」に、ずっと惹かれつづけているのだろう。重いものを重いものとして示すこと、それはすごく大事なことだが、しかしそれだけじゃなにかが足りない。そういう「足りない感じ」を、アウシュヴィッツの博物館に感じてしまった。



(写真はビルケナウ。重いですね。軽くしきれませんでした。まだまだ力不足です。)

2014年11月9日日曜日

カシウス礼讃/文化について

 
 今日(8日)はとても良い日だ。
 とくに何があるわけでもない。ただ天気が良いのである。それだけのことで、こころが跳ねあがる。
 晴れの日のすくない土地に暮らしていると、ときどきこういうことがおきる。まだ冬は始まったばかりで、これからどんどん寒さが厳しくなっていくというのに、なんだかイースターを先どりした気分だ。
 どうしてもじかに陽の光を浴びたくなって、急いで部屋をでる。The Beach Boysの"Pet Sounds"を聴きながらトラムに駆け込んだ。
 寮からほど近いレトナー公園のベンチで本を読み、座り疲れたので街のカフェにでも移動しようかと思った矢先、財布を持ってくるのを忘れたことに気がついた。仕方なく寮にもどってきたのだが、それでも気分がよいのでこれを書いている。

 じぶんのマヌケ加減に呆れつつMalostransá駅でトラムを待っていると、カシウスがニコニコしながら35番のトラムから降りてきた。地図に載っていない番号のトラムだ。

 このブログに登場するのは2回目だが、カシウスはぼくのルームメイトである。カシウス・マヌエル・ペレーズ。スペイン人だが、きれい好きで、何かにつけてぼくよりもよっぽどキチンとしている。机のうえもいつも整理されていて、ぼくも幾度か彼の整頓術を盗もうとしたが、実りは少なかった。
 カシウスは数学を勉強している。それなのに(と言わざるを得ないのが哀しいが)、たくさん小説を読んでいる。音楽の趣味もいい(お気に入りはGorillazとGould。これだけでもう言うことなし)。絵画も好きで(ゴヤについて色々教わった)、今日もひとりでプラハ城近くの国立新美術館に行ってきたようだ。本業の数学もたいしたものらしく、何年か前にスペインの数学オリンピックで5位になった。

 ある日の午後、彼はちいさな花鉢を抱えて帰ってきた。ピンクのかわいい洋菊である。どうせ女の子にでもあげるのだろうと思ったら、なんとぼくらの部屋のために買ってきたのだという。枯れそうになった花をみて彼は哀しみ("Shit, I'm sad. It's dying")、元気になった花をみて嬉しそうに笑った("I'm proud of her. It survived.")。

 カシウスと話していると、世界が多様であることに気づく。というより、世界が一様ではないということに気づく。世界が一枚の絵だとすると、それはけっして一色で塗られていない。とはいえ、ボーダー柄に塗られているわけでも、世界地図のように国ごとに色分けされているわけでもない。あえていえばどの部分にも色の濃淡があって、マーブルのように溶けあっている。そんなイメージを与えてくれる。

 と、言葉にするのは簡単だが、この感じ、じつはなかなか掴むのが難しいんじゃないかと思う。ぼくも日本を離れるまでは世界について違うイメージをもっていた。
 そういえばカシウスにもこんなことを言われた。
 −−でもさテリー、お前、高校生とかそのくらいのとき、将来イタリア語とかチェコ語を勉強することになるなんて思ってなかっただろ?
 −−そうか、イタリアは『ライフ・イズ・ビューティフル』、チェコは『存在の耐えられない軽さ』がきっかけか。そんな風に留学先を決められたのは良いことだね。すごく文化的で。

 (小説や映画などの)「文化」的な理由で留学先をきめること。あるいは単純に、ある国へ憧れをもつこと。これは日本人にとってはわりと普通のことだ。でも、たしかどこかで内田樹も書いていたが、たとえばヨーロッパの人間にとってはすこし不思議なことであるらしい。なぜなら彼らにとって(少なくともヨーロッパ圏内の)文化はいつもより具体的なかたちで、わかりやすく言えば人間のかたちをして現れるので、ある国のイメージを「文化」で型どる必要がないから。逆にいえば、日本人は「文化」と呼ばれるものを通してしか海の外と繋がれない変わった国民だということだ。

 文化というとどこか深いものだと考えられがちだが、映画を観たり小説を読んだり音楽を聴いたりするだけで底がみえてしまうようなものが文化なら、それはつまらない、浅いものだと思う。カシウスと話していると、そんなことを考えさせられる。

 ただやはり、ステレオタイプとは言わないが、身体に刻みつけられた国民性のようなものはじつに存在する。夜おそく部屋のドアを開け、読書灯の明かりのなか女の子とイチャつくスペイン人を見るたび、そう確信してしまう。

 

   (写真は上述のレトナー公園。こんな天気が続いてくれればいいんですが……)