2014年12月24日水曜日

21日の日記:偶然について

 
 21日の日記。


 ここ数日はいろいろなことがあった。今日から年末までは部屋でひとりだ。
 クリスマスのため、仲の良いエラスムス(ヨーロッパの交換留学生)の友だちのほとんどはじぶんの国へ帰った。ルームメイトのカシウスも。
 昨日はカシウスとKozelというぼくの好きな銘柄の黒ビールを飲み、パプリカ味のポテトチップスを食べながら映画を観た。彼にとっては初めてだが、ぼくにとってはたぶん3回目のWoody Alen "Annie Hall"。ふたりしてよく笑い、映画のあとはいつも通り夜おそくまで話した。

 留学を終えたらそのあとどうしたいのか。ぼくらはどこでなにをしているだろうか。カシウスは来年のいまごろ、スペインには居たくないという。フランスの大学院か大学で、フランス語を勉強したい。このまま順当に行けばいい仕事がもらえるのは間違いないけど、将来数学者としては働きたくないんだ。今は数学より人間と言葉と文化に興味がある。お前にも少しは責任があるんだぜ、テリー。お前と話してるとけっきょくそっちの話になるし、フランス語だって関係あるし、ほら、すくなくとも今おれがエンリーケ・ビラ=マタスを読んでるのはお前のせいだよ。彼は今朝「別れのポメッロ」と洋菊を残して部屋を去った。

 昨日の朝は偶然Lと会った。携帯のクレジットが切れたのでNárodní TřídaちかくのO2にチャージをしに行き、気分がよかったのでヴルダヴァ川沿いのSmetanovo nábřežíを歩いていると、むこうから彼女がやってきたのである。"Hey, this is crazy!!"

 じつはLとは一昨日も一緒にいて、この日の4時発の飛行機でパリに帰るという話をしていたのだった。「朝起きて天気が美しかったから散歩しようと思ったんでしょ?」("the weather is beautiful." Lはそう言った。日本語として不自然だが、直訳のまま残す。)
 8時半すぎだったと思う。この日の前日(つまり19日の金曜日)、Lからの電話があった。前話していたJazz Dockという店に行かないかとのこと。As soon as possibleというので9時半集合ということにして、急いで支度をして寮をでたのはいいが、なんと向こうは30分遅刻すると言ってきた。さすがラテン系、"Don't be late"とはよく言ったものである。

 国民劇場の外にある冷たい石のベンチに座り、勢いよく降る雨を眺めて時間をつぶしたあと、すぐそばの軍団橋を渡っていると、大量のカモメが大きな群れをなして飛んでくるのが見えた。黒く曇った空を覆うほどたくさん白い鳥型の穴があく。なにごとかと思って飛んできた方向に目をやると、川下のイラーセク橋あたりから小粒の花火が打ち上げられていることに気がついた。花火の発射音に驚いた彼らは、川上のカレル橋方面へちいさな大移動をはじめたのだ。カモメだけでなく、カラスや鳩も群れに交わる。橋から橋へ。人間ならさぞ迷惑がるだろうが、変化に柔軟な彼らは面倒な素ぶりひとつ見せず、颯爽と夜の風を切っていった。

 Lは遅刻に飽きたらず道に迷ったようで、ぼくはさらに30分ほど待たされた。その間、犬のフンを踏む、携帯のクレジットが切れるなどのハプニングのお陰で退屈こそしなかったが、1時間遅れで向かったJazz Dockでのコンサートはよくあるポップ音楽でぜんぜんJazzではなかった。まったくついてない。ぼくらは仕方なく近くのホスポダへ行き、だらだらと色々なことを話した。両親について、プラハについて、メランコリーについて。1月しなければいけないことについて、今までにした一番バカなことについて、こっぴどい失恋について。ちなみに彼女はこっぴどい失恋のあと、クンデラをたくさん読んだらしい。あまりオススメはしないが、ぼくも読んだ。というか(忘れかけていたが)、Lの父親は元クンデラの教え子で、3ヶ月前、彼女とはじめて会ったときもその話をしたのだった。世の中、じつはクレイジーなことだらけなのである。


 いつからかぼくは偶然に身を任せることが半ばじぶんのスタイルになってしまっていて、そのためにちょっとやそっとの偶然では驚かなくなった。それこそ小説の読みすぎかもしれないが、「あ〜、まぁそんなこともあるよね」という感じで、自然に受け入れてしまうようになった。でも、ほんとうの偶然はやはり人をまごつかせるものだと思う。とくにそれが意味をもちはじめ、なにか別のものへと姿を変えつつある場合には。



(写真はCeletná通りからの旧市街広場。もうクリスマスですね。Veselé Vánoce!)

2014年12月10日水曜日

チェコの裏切り者の研究者


 「なんでクンデラを選んだの?」


 おなじ質問を何回されたかわからない。まがりなりにも文学を研究している人間、とくに1人の作家、それもまだ評価が完全に定まってはいない現代の、というか現役の作家を研究している人間にとって、この質問はいわばサダメのようなものである。フロベールやセルバンテスやドストエフスキーを研究するのに、表立った理由はいらない。

 
 「彼の作品が好きだからです。」

 これが一番シンプルな答えだ。でもそれだけじゃ相手は納得してくれないから、仕方なくもごもごとなにか喋ることになる。この「もごもご」が論文になったり本になったりするのだが、実はこの国でミラン・クンデラについてもごもごするのはことさら厄介だ。


 先週末はチェコ第2の都市ブルノに行った。日曜日にチェコ人むけの日本語検定試験があるので、その試験監督のアルバイトがてら街を観光してしまおうというわけだ。

 土曜の朝6時に起き、カシウスと「別れのポメッロ」(ポメッロとはスペイン語でグレープフルーツのこと。日本のものより大きくて美味しい)を食べ、トラムの駅へ走る。プラハ中央駅から電車で2時間半。車内では翌々日のプレゼンに備えて『存在の耐えられない軽さ』を急いで読みかえした。現地はあいにくの雨だったが、感じのよいホステルに泊まれ(Hostel Fléda)、すばらしいレストランに当たり(Hostinec U Semináru)、海外で日本語の試験を監督するという得がたい経験ができた(試験内容はかなりむずかしかった。留学仲間のKHさんが言うように、たしかに「日本人でも空気の読めない人は正解できない」だろう)。
 だが、まさかブルノでこのサダメられた質問にでくわすことになるとは思っていなかった。皮肉にも、クンデラの生まれ故郷であるブルノで。

 「なんでクンデラを選んだの?」


 午後5時半ごろ、ちょうどメインステーションでプラハ行きの電車を待っているときだった。試験を受けたチェコ人の学生や、おなじ監督業務にたずさわったチェコ在住の日本人がホームに集まっている。今回の相手はチェコで30年以上も暮らし、チェコ語の通訳などをしている男性。カレル大学を卒業した最初期の日本人の一人だという。ぼくは手袋をした手でダッフルボタンをいじくりながら答えた。


 「う〜ん、たまたま彼の小説を読んで好きになったっていうのが一番素直な理由ですかね。ぼくは大学でチェコ語専攻だったわけではないので、チェコから入ったんじゃないんですよ。」


 「そうか、今でもチェコの60年代を知ってる連中のなかには、『アイツは逃げたんだ』って言うやつもいるよ。」


 ぼくは苦笑いを浮かべ、黙ってうなずいた。これを境にクンデラの名前は会話から消えた。


 はっきりいって、ミラン・クンデラはチェコで嫌われている。しかも残念なことに、それには当然といっていい理由がある。フラバルら多くの同時代作家と違いフランスへ「逃げた」こと、秘密警察への密告疑惑があること、移住してしばらくしてフランス語で書き始めたこと、最近はじぶんが「フランスの作家」として認識されるべきだと発言しており、ついに自作品のチェコ語への翻訳を禁じはじめたということ、加えて極度のマスコミ嫌いなうえに、本人自身、かなり「むずかしい」性格の持ち主だということ。

 つまり、控えめにいっても、チェコ人にとってクンデラは「嫌う理由の宝庫」なのだ。チェコ人だけではない。チェコ通の外国人もたいていクンデラを嫌っている。一方クンデラにしても、彼らにたいして悪びれる様子は微塵もない。むしろそんな母国との関係を作品に生かしている。裏切り者としてのじぶんを強く意識している。

 裏切り。じっさい、クンデラにとって裏切りは重要な文学的テーマである。彼の裏切りへの過剰とも思える身ぶりには、どこか強く人を惹きつけるものがある。そこでは自己肯定と自己否定が一緒くたになっている。


 いずれにせよ、クンデラについてなにか書くのであれば、彼の裏切りに負けないように書かねばならない。この国にいると、そんな思いが日に日に強くなる。


 

 
(写真はブルノのカフェから見上げる聖ペテロ聖パウロ大聖堂。この聖堂、迫力がすごいんです。)