更新が滞ったのには理由がある。先週は15日から17日までポーランドを旅行していたので、その準備などもあって、記事を書く時間がなかったのだ。むこうではクラクフに2泊したのだが、旅の目的はもっぱらアウシュヴィッツだった。
アウシュヴィッツ。世界中の人間が、ここで何が起きたか知っている。他の観光客の例に洩れず、ぼくもこの場所について何を知っていて、何を知らないのかを確かめるためにアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪れた。
11月17日月曜日。とても寒い日だった(最高気温が4℃だったらしい)。雨にこそ降られなかったが、始終どんよりしたぶあつい雲のした、深い霧につつまれ凍えそうになりながら、午前11時から午後4時半まで、ほぼ休憩なしで歩きつづけた。この日の寒さと疲れこそが、日々ぼんやり暮らしているぼくとアウシュヴィッツを繋ぐ唯一のものであるように思えた。ぼくをこの地に呼びだした当のものが、ここにはないという気がした。
だがじっさい、今よく考えてみても、アウシュヴィッツとぼくのあいだには何かしら縁があるはずなのだ。
ひとつ前の文章でも触れたが、ぼくとイタリアを引きあわせた直接的なきっかけは、13歳のときに観たロベルト・ベニーニの映画『ライフ・イズ・ビューティフル』だった。これはビルケナウに強制収容されたイタリア系ユダヤ人の家族の物語。映画のなかば、収容所の現実の過酷さから息子ジョズエを守るため、陽気でおしゃべりな父グイドはある嘘をつく。ここで行われているのはとてつもなく大規模なゲームで、いい子にして、泣いたり、ママに会いたがったりしなければポイントがもらえる。ゲームだということは知らないフリをしなくちゃいけない。1000ポイントたまったら本物の戦車に乗って家に帰れるのだ、と。
これに加えて、ぼくにチェコ留学という数奇な運命をもたらした(お馴染み)ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』。おもに1968年の「プラハの春」を背景に書かれたものだが、じつはこの本のなかにも、語り手「私」による強制収容所への言及がある。
そう昔の話ではなく、私自身も信じられないという感覚をおぼえながらこんな事実に驚いた。ヒトラーに関するある本の頁をめくっていたとき、彼の数葉の写真をまえに私は感動していたのである、その写真が自分の幼年時代のことを思いださせてくれたのだ。私は戦時中に幼年時代を過ごし、家族の者たちが何人もナチスの強制収容所で死を迎えていた。だが、自分の人生の過ぎさった時間、もう二度ともどってこない時代を思いださせてくれたヒトラーの写真に比べれば、彼らの死などなにものだったろうか?
(『存在の耐えられない軽さ』西永良成訳、河出書房、2008年)
ここには強烈な価値観の反転がある。ほんらい誰かの死、あるいは過去の事実ほど「重い」ものはない。そういったものには変更が効かないので、ぼくたちはただそれを黙って受けいれるしかない。しかし上の語りで「私」は、重いはずの「死」や「歴史」より前に、現在という寄る辺ない時間に生きる個人が持つもののうちでも、ひときわ頼りない「記憶」を置くのである。
クンデラの「私」はその挑発的な語り口からしておおくの読者の反発を誘発するのだろうが、じつは『ライフ・イズ・ビューティフル』も、一部の作家や批評家から痛烈な批判を受けている。アウシュヴィッツという筆舌に尽くしがたい歴史の現実を矮小化し、いわば「ポップ」にしていると。
現代イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、『アウシュヴィッツの残りのもの』という(むずかしいが)すばらしい本のなかで、強制収容所からの生還者の「証言不可能性」について書いている。ごく簡単にいえば、アウシュヴィッツやビルケナウを生き延びた人間が経験したことがらはあまりにも「非現実的」なので、言葉にすることはできない(し、仮にできたとしても誰にも理解されないだろう)ということだ。
たしかに世の中には、言語化されること、理解されることを拒む事実が存在する。でもだからこそ、言葉が必要なんじゃないだろうか。言葉にならないかもしれない、理解されないかもしれない。そこに言葉の可能性がある。そもそも言葉がないのであれば、そのすき間にある「言葉にならないもの」もないのだから。
たぶんぼくは、クンデラやベニーニの「軽さの技法」に、ずっと惹かれつづけているのだろう。重いものを重いものとして示すこと、それはすごく大事なことだが、しかしそれだけじゃなにかが足りない。そういう「足りない感じ」を、アウシュヴィッツの博物館に感じてしまった。
(写真はビルケナウ。重いですね。軽くしきれませんでした。まだまだ力不足です。)
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