2016年8月29日月曜日

ホウビ、ハルパ、ベプショ。あるいはチェコの自然:サマースクール編(その2)


 先々週末はアンナの家族のコテージに行ってきた。チェコの自然に触れ、肉をたらふく喰い、そしてキノコ狩りをした。念願叶ったり、である。
 じつは一昨年の秋、チェコに来て間もないころにも大学のチューター(世話係)だったMにコテージに誘ってもらったのだが、あいにく悪天候のために中止となった。チェコ語を勉強しはじめてわりと早い段階から「コテージ+キノコ狩り chata/chalpa+sbírání houby」はぼくにとっての「最難関To doリスト」に挙がっていたので、当時は「こんなに早く目標を達成してよいのだろうか」と思ったものだが、この不安(?)はみごと杞憂に終わったのであった。とにかくそれから二年後のこの日、ようやく思いが遂げられたというわけだ。
 今回の旅のお供は、恒例アンナ・イゴル夫妻(結婚おめでとう!)、アンナのお母さん、そして研究室の後輩T。8月19日の昼にプラハを出て、アナのお母さんの運転のもと、プルゼン/ピルスナー方面に車に走らせることおよそ1時間、Mlečiceという小さな村に到着。さっそくコテージへと招かれたわけだが、このコテージがなんとも素晴らしい。広く整った庭と、そこに植えられたリンゴや洋梨、プルーンなどの木々に覆われた白と茶色のシンプルな「chalpa ハルパ(大きめのコテージ)」は、なんと築200年以上だという。なかには暖炉があり、元子供部屋現客室があり、キッチンがあり、書斎もあり、もちろん寝室やリビングもある。あまり大げさになってもいけないが、これはおよそほとんどの日本人が頭に描く「理想のコテージ」だと思った。それくらい、居心地がよいのである。 「コテージで一番いいのは、外が大雨で、家のなかだけが静かな時だね」とイゴルは言っていたが、そんな時に暖かいコーヒーでも飲みながら読書をしたり書きものをしたりするのは、さぞ粋なものだろう。
 初日は村をすこし散策してから庭でBBQをした。ぼくはわりとよく食べるほうなので(豚肉 vepřoのローストを4、5枚たいらげた)、「こんなに細い日本人がこんなに食べるなんて信じられない!」とか「彼の胃袋は底なしだ」とか言われながら、楽しく夕食を終え、翌日にそなえた。
 さて、待ちに待ったキノコ狩りである。ぼくらは朝7時頃に起床し、ライバルに先を越されないよう早々とちかくの森に向かった。みなキノコ用の籠とナイフをもち、虫除けスプレーをふりかけ、長袖長ズボンで準備万端である。とはいえ、キノコ狩りはもちろんそれほど派手なスポーツではない。基本的にはただ黙々と地を這うように視線をはしらせ、なにか見つけたときだけ声をあげる。よく言われることだが、チェコ人は基本的にみな「キノコの専門家」で、食用かそうでないかを見わけることは簡単なようだ。ただぼくら日本人は見つけたものをとにかく籠にいれ、イチイチ専門家に訊いてみないといけない。せっかくの獲物を「これもダメ、これは食べられない、これもダメ…」といってほとんど捨てらてしまうのは、なかなか哀しいものがある。しかしわれわれもバカではない。1、2時間もすれば基本的な種類はだいたいの見当がつくようになる。白くて脚の長い、スタイリッシュなBedla。エリンギのように太いが、地面に埋まっているため見つけにくいHřib。そして一番よくある(ゆえに見つけてもあまり嬉しくない)Klouzek。森にはところどころに野生のブルーベリーも生えており、それをつまみながら楽しい狩りに精をだした。
 3時間ほどしてそろそろ帰ろうかという頃、うしろ髪を引かれるようにまた別の林にはいった。木々は背が低く密集し、土はよく湿っている。これまでの森とはなにかが違う。狩りを始めてそうそう、声があがった。「Ježíš Maria! (英語でいうところの"Oh my God!")」アンナが巨大な双子のHřibを見つけたのである。それに続き、ほうぼうから歓喜の雄叫びが響く。ぼくもかなりの大物を見つけた。みな興奮し、まわりの木々が引っかかろうがお構いなしにナイフでキノコを削りとる。できるだけ腰をおとし、地面と水平に視線を伸ばすと、キノコの頭がぽっくり突きでてみえる。なかには来客を待ち構えていたかのように堂々と鎮座するキノコもあるし、人を寄せつけないほどの神聖さを感じさせるキノコもある。つぎつぎに現れるキノコに一喜一憂しながら、さながらドワーフにでもなったような気分だったぼくらは大満足でコテージに帰り、ずっしり重いキノコ籠をもって記念撮影し、昼下がりにはプラハへ帰った。

               *   *   * 


「コテージ+キノコ狩り」体験は、いろんな意味で期待以上のものだった。チェコの自然、そしてそれを楽しむ術を心得たチェコ人の豊かさに嫉妬したくらいである
 われらが日本も自然豊かな国だ。それは間違いない。しかし都会では、自然が驚くほど生活から切り離されてしまっている。神戸の片田舎出身なのでより痛烈に感じるのかもしれないが、プラハのような都市にしても田舎にしても、チェコでは自然というものがいかに日々の暮らしに溶けこんでいるのか、まざまざと見せつけられる。
 ぼくはいわゆるエコロジストではない。「自然に帰れ!」というつもりもなければ、動物愛護団体にもはいってないし、ヴェジタリアンでもない。それでも、ふりかえって東京の生活を考えると、その基盤のなさに驚かされる。というより、生活の基盤がすべて「商品」になってしまっていて、なにをするにもお金がかかる。しかしこの国では、日々の生活にずぶとい「根っこ」が生えている、という感じがする。自然というものが、レジャーとしてだけでなく、暮らしの支えとしてしっかりそこにある。この季節だと、腹がへったらそこらへんのリンゴをもぎって食べればいいし、喉がかわいたら、たとえばペトシーン公園にでも行けばおいしいプルーンがやまほど手にはいる。東京では歩いて5分でコンビニがあったり、ファミレスがあったりするわけだが、こういう「贅沢」をポケットの財布なしで経験することはできない。週末に田舎のコテージにいってのんびりと時を過ごす習慣だって、金持ちの特権ではなく、こちらではごく一般的なものである。ありきたりな感想だが、豊かさとはなにか、考えさせられた。
 チェコ滞在も終わりに近づいたいま、遠く故国から聴こえてくるのは、金属製のキリキリした音である。




(写真は収穫の一部。右下に見える白く美しいキノコがBedla。薄くスライスしてバターで焼き、パプリカで味付けしたあと、パンにのせて食べる。その右横にあるのがHřib。エリンギのように太く、松茸のように美味い。ぼくらは後日フライにして食べた。そしてそのほか大多数がKlouzek。一番メジャーな種類。肉が黄色がかっているのが特徴で、日本でいうとシメジ的ポジションだろうか(でも個人的にはシメジより好き)。

2016年8月12日金曜日

母語が頼りなくなること:サマースクール編(その1)


 1ヶ月だけだが、チェコに帰ってきた。7月26日にプラハに到着して、8月1日から研究ついでにいわゆるサマースクールに通っている。
 この夏期学校、プログラムとしてはカレル大学の哲学部に所属しており、正式には「Letní škola slovanských studií スラブ語学サマースクール」という。ほんとうはちゃんとチェコ語のウォームアップをして準備万端で臨むはずだったのだが、不慮の事情がもろもろあって、例のごとくまた準備不足のぶっつけ参加になってしまった。ここらへん、われながらまったく成長しない。

 それはともかく、今回のサマースクールには正直すこし戸惑っている。じつは去年もべつのサマースクールに通ったのだが、そちらは社会人と学生がいり混じった、どちらかというと実践むきの、Ujopという語学学校でのものだった。能力別におそらく全部で4つか5つに分けられるクラスのうち、僕のはいったクラスには生徒が5人ほどしかおらず(たぶん全体でも50人に満たないだろう)、先生は期間中ずっとおなじで、授業は4時間ぶっつづけ。いろんな意味でかなりインテンシヴだった。
 しかし今回はそれとはまったく違う。生徒は200人をゆうに越えているし、レベルは同じく4つあるが、さらにそれぞれ3つにわけられ、全部で12のクラスに細分化される。授業の内容にもかなり幅があり、一番上のクラスはものすごくハイレベルで(なんと母国でチェコ文学を教えている教授なども学生として出席している)、望めばアカデミックな講義も受けることができる。授業は1日に4つとることになっていて、必修科目と選択科目の組み合わせという感じ。平日は授業後、土日は朝からエクスカーション的な観光ツアーがきっちりプランされているし、学生に斡旋される寮にはご丁寧に朝・昼・夜と毎食メンザ(食堂)での食事が用意されている。見方によっては「至れり尽せり」というわけだが、基本的に団体行動や緊密な計画というものが肌にあわない僕にとっては、間延びした修学旅行みたいでぜんぜん落ち着かない(ちなみに僕はエクスカーションにまだ一度も参加してないし、寮での食事もほとんどしていない)。
 いやはや、先が思いやられる……という感じだが、愚痴めいた現状報告ばかりしていてもしょうがない。もうすこしマシなことを書きましょう。

*   *   *

 数日前にきづいたことだが、僕には日本をしばらく離れるとどうしても聴きたくなる音楽がある。Thee Michell Gun Elephant, Rosso, The Birthdayなど、チバユウスケという男を中心に結成された一連のバンドの曲だ。なかにはわりと複雑な構成のものもあるが、基本的にはブルース、パンク、ロックを基調としたシンプルな曲をつくる。曲もいいし、声もいいし、歌もいい。しかし僕にとってなんといっても重要なのは、チバユウスケの書く歌詞だ。キレアジバツグンである。たとえばこのごろ毎日聴いているThe Birthdayの「シルエット」という曲のサビは、

シルエットは 
思ったより 
長くて僕は
巨人になってた 
夕焼け色 
燃えあがってた
すぐそば 
隣で

という、じつに簡単な、けれどもすごく印象的で強い言葉で書かれている。このあとには「これならお前を/守れるだろう/どんな/ものからも//そう思ってた」という、すこし恥ずかしい言葉がつづいたりもする(最近のチバは意図的にこういうストレートな詞を書いているように思える)。しかしなんにしても、16歳のときにニュージーランドにホームステイした時からヴェネツィア留学をはさんで現在にいたるまで、僕は日本のそとではずっとチバの詞に頼ってきたし、そのたびに安心させられてきたのである。

 その理由が、数日前にわかった。曲調に元気づけられるということもあるが、なによりも僕の母語が頼りなくなっているのだ。
 単に日常の場面で使えないという意味でも頼りないし、日本語の世界そのものの基盤がゆらいでいるという意味でも頼りがない。外国語の侵入によって母語が弱くなっていると言ってもいい。だからチバユウスケの歌詞のように強くて頼もしい言葉がほしくなる。そういう言葉にしがみつくことによって、なんとか日々の安定をたもっている気がする。

 頼りないとか弱いとかいうとネガティヴに聞こえるが、僕はこの状態が嫌いじゃない。この状態になると、自分にとってどうでもいい言葉は見事に出てこなくなる。いらない言葉は遠くの靄のむこうで見えなくなるし、大事な言葉は手づかみできるくらい近くに感じる。これがずっと続くのがいいことだとは思わないが(だからやっぱりクンデラには同情する)、でもたまには、こうやって母語を濾過してみるのもいいだろう。
 


(写真はプラハ郊外、ヴルタヴァ川沿いのModřanyという駅で撮ったもの。イメージとはだいぶ違うのでしょうが、プラハにはこういう一面もあるのです。時にロックなのです。)