2015年2月9日月曜日

エラスムスの最期(Part2. ヴェネツィア編)


 この街について書けることは少ない。

 書きたいことは山ほどあるが、言葉にするのがむずかしい。ヘタな言葉じゃまったく歯がたたないような、そんなところなのである。

 ぼくがヴェネツィアにいたのは2009年から10年にかけてのおよそ1年間。だから、だいたい5年前ということになる。
 そのころのぼくはまだ20代になったばかりで、世界は希望に満ちあふれ、あらゆるものは新鮮な光に包まれていた──というのはウソだが、どこからどう見ても現実ばなれしたこの島ですごした時間がぼくのふらふら病に大いなる拍車をかけたことは間違いない。ヴェネツィアに行ってなければ、いまごろプラハにいることもなかっただろう。たぶん。

 留学中はIsora di San Servolo サン・セルヴォロ島というところに住んでいた。そう、島に住んでいたのである。もちろんヴェネツィア本島のことではなく、ちいさな、ほんとうにこぢんまりとした、15分もあれば歩いて1周できるような島だ。ぼくらは島に住み、島で勉強した。じつはこの島全体が留学先の大学の敷地だったので、そこには校舎だけでなく、元精神病院だった寮兼ホテルや、ちょっとした運動場や、なにに使うのかよくわからないイベントスペースや、マズくて高い食堂や、わりと感じのいいバールがあった。

 時は下って2015年の1月2日。

 プラハでの年越しそうそう、ぼくはTとともにヴァネツィアに渡った。3日間の滞在、いわば里帰りの旅である。Tはセルヴォロ時代のルームメイトだったから、もちろんこの小島にも立ち寄った。じっさいにはあまりにも不便なので(本島との唯一の交通手段である水上バス vaporettoが、なんと1時間に1本しかなかった)、当時は半年で本島に引っ越したのだが、この島での思い出はどうしようもなく身体に刻みこまれている。たとえば真夜中に忍び込んだ教室。そこで観たオペラ。開け放った窓からアドリア海への立ちション。
 いくつかの店がなくなったり違う店になってたりはしたものの、ヴェネツィアは5年前となにも変わっていなかった。相変わらず美しかった。ただ、ぼくが5年間こころに思い描いていたイメージより、本物はずっとちいさな街だった。道はより狭く曲がりくねり、建物はより低くせめぎあっている。まるでミニチュアのなかを歩いているようだった。ヴェネツィアは、じっくり時間をかけて着々と、ぼくの頭のなかで1.5倍ほどの大きさにふくらんでいたのだ。

 ところで、この街についてイタリア人が話すとき必ずといっていいほど使われるフレーズがある。

 È diverso.

 今回はじめて出会ったイタリア人も漏れなくそう言っていた。簡単な言葉だが、日本語にはなぜか訳しにくい。英語にするとIt's different.となる。

 È diverso. ほんとうにそうなのだ。言葉の最高に精確な意味において、diversoなのである。なにか他のものから隔たっているということが美しさと結びつくということを、この島ほど強く訴えかける場所はない。

 異なるということは、孤独ということでもある。深い孤独は、おなじく孤独なものを引きよせ、ときには死を引きよせる(「ヴェニスに死す」のグスタフがそうであったように)。それほど大げさでなくても、この島に暮らしていると、だれもが時が止まったように感じるだろう。この島を動くのは、運河をながれる深緑の水と、なにか語りたげに吹きさるアドリア海の風と、その音に耳を傾けるあなただけ。イタリア本土からも孤立したこの島は、そこに住む者、訪れる者をひとり占めにしてしまう。

 この街では、ひとりひとりが否応なくヴェネツィアに向きあわされる。そうなったが最後、この街はあなたをけっして離さない。水と空気、ヒドいときには島の3分の1を沈めてしまう高潮 Acqua altaをとおして、それぞれのヴェネツィアを沁みこませてしまう。
 使い古された比喩でいえば、この島は、とんでもなくワガママで、独占欲旺盛で、それでいてどうしても憎めないファム・ファタールなのである。そして言うにおよばず、ぼくはいまだに彼女に振りまわされている。


(写真は夕刻のヴェネツィア。きれいですね。きれいなんです。今回はブログのタイトルに反して、堂々と浮気してしまいました。ごめんねプラハ!)