2014年10月29日水曜日

墓地と歴史


 今日(10月28日)はチェコスロヴァキア独立記念日だ。プラハ城をはじめ、多くの観光施設、公共施設は閉まっており、街全体にどこかひっそりした空気が漂う。大学もお休み。ぼくも昼過ぎくらいまでは部屋でひっそりしていたが、夕方頃、チェコ人H先生の勧めを思いだし、寮からすぐ近くにある墓地 Břevnovský hřbitovへ行ってみることにした。
 墓地は修道院の敷地のなかにあり、いくつかの庭園に囲まれている。この庭園はぼくのお気に入りである。無造作なようでもあり、手入れが行き届いているようでもある開けた空間を、いつも静かな緑が覆っている。ここに来る人たちは、その静けさに配慮するように、すこし小声で話す。
 残念ながら入り口が見つからず墓地へは入れなかったのだが、鍵のかかった門を通して、あるいは林のなか、あるいは小高い丘のうえから、なかの様子を伺うことができた。灰色の墓石を背景に色とりどりの花が飾られ、それを普段は見られない赤色の光が照らす。このキャンドルの灯火が夜どおし先祖の霊を祀るのである。チェコスロヴァキアの独立記念日は日本でいうお盆の役割も果たしているようだ。
 
 この国に来て1ヶ月半になるが、チェコ語の能力不足のせいで、残念ながらまだあまりチェコ人と話す機会をもてていない。それでも何人かの(英語が話せる)チェコ人は、ぼくがチェコ語とチェコ文学を勉強しに来たというと、驚いたような嬉しいような顔をして、時にいろいろ話を聞かせてくれる。
 ブルノのフランス語高校を卒業してカレル大に来たチェコ人Kの祖父は、共産主義の時代を生き、秘密警察に捕まって、鉱山で死んだ。警察に捕まる前は有能な精神科医だったのだが、鉱山ではだれもそのことを知らなかったという。あるいはKが受講している講義の教授。彼も警察によって大学での職を追われ、掃除夫などをしながらのちに主著となる大著を書き上げた。大学でも伝説的な人物で、現在なんと80歳で教鞭をとっている。

 この話を聞いたとき、ぼくらはプラハの旧市街にある、Kの言う「典型的なチェコのホスポダ(居酒屋)」にいた。 店の内壁には有名なチェコ映画のワンシーンを切りとった写真がところ狭しと飾られている。
 こういう店がおれは一番好きなんだ、さっきみたいに音楽がうるさいバーじゃなくてさ。深夜2時をまわっていたのにも関わらず、Kはビール片手にとても熱心に話した。

「プラハには『知識人の橋』と呼ばれている橋があるんだ。共産主義に抵抗した知識人たちがそこでよく集会をしていたらしい。今ではもうそれがどの橋のことなのかわからないんだけどね。でもおれはじぶんの国の知識人が命がけで戦ったことを誇りに思うよ。」

 考えてみれば当たり前だが、まさかこんな話――それこそクンデラの小説にたくさん出てくるような話――を年下の友人から聞くことになるとは思っていなかった。この国に生きる人間には、たとえそれが20歳の若い学生でも、共産主義時代の暗い歴史がまだナマのものとして身体に染みついているようだ。

 1977年、チェコを代表する哲学者であるヤン・パトチカは、のちに大統領となる作家ヴァーツラフ・ハヴェルらとともに「憲章77」という反体制運動の発起人となる。そのために逮捕され、当局の取り調べ中に心臓発作で死んだ。彼もいまはこのBřevnovský hřbitovで眠っている。今日ぼくが見かけた人のうちにも、パトチカやKの祖父のように、時代と戦って死んだ親類の墓参りに来た人がいたかもしれない。



(写真はプラハ城からの夜景。こちらはもう完全に冬です。寒い。)

2014年10月24日金曜日

カレルの沸点、あるいはヨーロッパの亡霊


 6日前(18日)のこと。

 この日、ぼくはこちらに来てはじめてプラハを離れ、カルロヴィ・ヴァリという街へ日帰り旅行へでかけた。午前6時に起き、8時半Florenc駅発のバスに乗る。朝が苦手なぼくにとっては、この時点で大きな冒険であった。同行する予定だったスペイン人Mは、チケットを予約していたのにもかかわらず寝坊のため早々とギブ・アップ。あまりにもスペイン人的すぎる。一同"He's like a baby"ということで合意。結局バスには、ぼくと、フランス人Ch、同じくフランス人L、Lに会いに来たパートナーのパリジャンA、そしてイギリス人Nが乗りこんだ。Student Agencyという会社の、安価で、とても快適なバスだった。なんと飛行機の客席のように、映画やドラマが観れるモニターがついている。ドリンクのサービスもある。

 11時頃、カルロヴィ・ヴァリに到着。ここはボヘミア西部にある世界的に有名な温泉地である。ゲーテやショパンもこの街を訪れたという。ミラン・クンデラの小説『別れのワルツ』の舞台である温泉街も、おそらくここがモデル(のひとつ)だろう。

 この街の名前、カルロヴィ・ヴァリには、おもしろい由来がある。伝説によると、ある日、神聖ローマ皇帝カール4世/ボヘミア王カレル1世は、この地にシカ狩りに出かけた。大きな森のなかで王は1匹のシカを見つける。狙いをつけられたシカはジリジリと崖のほうへ追いつめられる。 王の気迫に圧倒されたこの哀れな動物は、険しい崖から飛び降りることを余儀なくされる。必死でピョンピョン逃げていくシカ。すると、シカが最後に飛び跳ねたところから、なんと大量の温泉が噴き出したではないか。この光景を目の当たりにした王はこの土地の豊かさを確信し、ここに街を築くことにした。それがKarlovy Vary. つまり、「カレルの沸点」。「温泉」ではない。そこがなんとなくチェコ的だなと感じる。

 さて、何ごともなく目的地にたどり着いたにみえたわれわれだが、じつは誰もこの街についてまともにリサーチしてなかったことが発覚。地図ひとつない。日本だと一悶着ありそうな状況だが、皆ほとんど気にしない。そのままあてもなく街をほっつき歩く観光客5人組。と、ここで救世主よろしくドイツ人Adが合流。ぼくたちと同じバスのチケットがとれず、一足先に現地に到着していたのである。2時間も早めに来ていただけあって、彼女はすでにこの街の土地勘がある。
 Adの案内に従って、あたりの森を散策する。紅葉がとても美しい。この街に限らず、チェコの人間は自然の楽しみ方をよく知っている。そのことがよくわかる街の作り。右手には森、左手には湖、そのあいだを小さな緑道が走る。湖には立派なしだれ柳。パリジャンAがしだれ柳を指しながらイギリス人Nに、あれは英語で何ていうの? と訊く。フランス語では Le saule pleureur(泣き柳)というんだ。ほらあの木、葉っぱの一枚一枚が涙みたいに見えるでしょ?

 眺望のよい一風変わったホテルのちかくで、一時休憩。
 この街と、チェコの建物についてChと話す。フランス、とくにパリの建物の装飾は極めてシンプルで、外壁はほとんど白だという。イタリアも外観は比較的シンプルだが、色使いは極めて鮮やか。暖色系。パリのことはわからないが、ヴェネツィアの建物はかならず陽の光を必要とする。だから 冬は耐えきれないくらい淋しい。一方チェコは、すべての建物が、砂糖菓子のようにすこしクリームがかった色で柔らかく彩られている。太陽光にあまり影響されない色である。明暗の差をできるだけ見えにくいものにする――シュガーコーティングする――ことが、長く厳しい冬を乗り越える工夫のひとつなのだろう。
 
 こうやっていろいろと話をしているなかで、ぼくはまた失態を犯してしまった。やはり口は災いのもと。なぜかミドル・ネームの話になったときである。
 当然(というわけでもないのだろうが )、ぼく以外はみんなミドル・ネームをもっていた。イギリス人のミドルネームはいかにもイギリス的に、フランス人のミドルネームはいかにもフランス的に響く。ここでぼくは、ちょっとした出来心とサービス精神から、やめとけきゃいいのに、「おれだってミドルネームあるぜ!」と言ってしまったのである。驚いた顔でぼくをみる友人たち。ほとんど反射的な発言だったので、こちらはなにも準備していない。次いで口からでたのは「…ニンジャっていうんだ!」という言葉(ああ文字に起こすのも恥ずかしい)。
 コンマ数秒、宙をただよう我がニンジャ。もちろんぼくはウケを狙って言ったのだが、予想していなかったことが起きた。他の人間は笑っていたが(むろん爆笑ではない)、Chはぼくのジョークを完全に真に受けてしまったのである。
 
 「ほんと!? それってすごいね!!! ニンジャー!」

 彼女の名誉のために言っておくが、Chはとても賢い女性である。ぼくの知るなかではフランス随一の大学から留学している。しかしこの時、ぼくは一時的なショック状態にあり、彼女の突然の歓喜にまったく反応できなかった。というのは、

 A. Chはとても賢い女性である。
 B. Chはニンジャが大好きだ。

 というふたつの文章は、ぼくのなかで完全に矛盾するからである。なぜなら文化というものには層があ(るとされてお)り、現代を生きる多くの日本人にとってニンジャとかサムライは、それ自体では「サブカルチャー」の層にすら達しない、おそらくそれよりも下位の、時代劇か子供向けの戦隊モノにしか登場しない、現実に存在しない亡霊のようなものだからである。そんなバカバカしいものに知的な女性が熱狂していてよいものか!

 「ヨーロッパに亡霊がでる――クール・ジャパンという亡霊が……」
 
 しかし、ぼくのなんちゃってミドルネームにたいするChの率直な感動ぶりと、「ゴメン、さっきのはジョークだったんだよ」というぼくの言葉を聞いた彼女の落胆ぶり(と、"Hey, that's so mean!"というLの怖い顔)を見ていると、どうしても悪いのはぼくのように思えてきた。
 というか、たぶんほんとうに悪いのはぼくのほうだったのだ。ぼくはもっと自国の文化の扱いに注意深くあらねばならなかったのである。なぜならば、端的にいって、いまや日本の文化は日本人だけのものではないから。この時代にあって、世界の国々にはそれぞれ「小さな日本文化」とでもいうべきものがある。 アメリカにはアメリカの日本文化、チェコにはチェコの日本文化、フランスにはフランスの日本文化。そしておそらくぼくらには、ただ日本人であるというだけの理由でそれらの「小さな日本文化」に口出しする権利はない。

 日本人からするとただのステレオタイプとしか思えないものが、たとえば西洋の文化大国から来た人間に、思いもよらないほど深く食い込んでいるということがある。日本人にとってはペラペラのうすっぺらいものが、外国では豊かな厚みを持っているということだってある。そういう可能性を、否定してはいけないと思った。

 そういう可能性に引っぱられて、ぼくだってここまで来たんだし。



(写真はKarlovy Vary. ほんとうに洋菓子のような、可愛らしい街でした。)

2014年10月18日土曜日

外国で話すこと/外国で書くこと

 
 ぼくは話すことをどこか諦めてしまっているフシがある。

 話すことを諦めていることとはどういうことかというと、いきなり反語的な言いまわしで申しわけないが、なんでもある程度テキトーに話せる、ということである。ほんとうに話すべき内容を口に出さず、テキトーにカワセるということである。

 ぼくは昔から滑舌が悪く、子供のころはじぶんの名前すらちゃんと発音できなかった。スーパーマーケットなどでふらふらしすぎてよく迷子になってはサービスカウンターのお姉さん(あるいはおばさん)のところへ行き、妙に生き生きと迷子宣言をするのがぼくの小さいころの習慣だったのだが、そのときもじぶんの名前を正確にお姉さん(あるいはおばさん)に伝えるのにずいぶん苦労した憶えがある。
 加えて根がシャイなので、あまり長い間じぶんの下手くそな話に人の注目を集めたくない、という気持ちがどこかにある。だからぼくの発話スタイルはどんどんストーリーテラー/噺家型から遠ざかっていき、それとは逆の方向――強いていえばコメンテーター/野次型の方向――へ発達していった。

 もちろんこれは日本語をつかって日本人とコミュニケートする場合である。こちらでは、限られた語学力のために、日本語でやっているような高度な「カワシ技」は使えない。それにこちらの人間はあまりカワサれるのが好きではない。彼らの会話は(日本人のそれと比べると)基本的に直球であり、直球であるということは小細工が効かないということである。だからこちらもイヤでも正面きって話さなければならない。
 さらに彼らはそもそも「話すこと」そのものを、 非常に重くみている。これはこちらの人間の語学に対する取り組み方と日本人のそれを比べてみれば一目瞭然だ。
 たとえば英語だと、ふつう「あなたは英語ができますか?」と訊くときは、"Do you speak English?"という。誰もぼくが英語を読めるか、または書けるかを訊いてはくれない。ぼくはミラン・クンデラというチェコ語・フランス語のバイリンガル作家を研究しているので、そのことを話すと、フランス人の友人などはよく"So, you can speak French!"と言う。それに"No, I just can read it."と応えると、少し不思議な顔をされる。彼らにとって言語とは第一に「話すもの」、より適切に言えばオーラル・コミュニケーションのためのものだからである(だからたとえば哲学者ジャック・デリダはこのような西洋の音声中心主義を批判した)。逆にいえば、話せないと言語が出来ることにならない、ということだ。クンデラをフランス語で読めるのにフランス語がしゃべれないなんて変、なのである。そういえば数日前もスペイン人ルームメイトのカシウスに、決め台詞的に"Language is to be spoken."と言われて苦笑した。

 でもカシウス、そしたら書き言葉はどうなるの? きみの読んでるそのジョイスの短篇はどうなるの?  ぼくの書いているこの文章はどうなるの?

 当たり前のことだが、話し言葉には話し言葉の良さが、書き言葉には書き言葉の良さがある。外国で生活していると日本では気づかなかった話し言葉の良さにも気づくことができる。日本語ではとてもいえないことが平気でいえることだってある。
 それでもやはり、ぼくにとって言葉は第一に書かれるものである。"Language is to be written."
 話し言葉には迷いがない。それは一直線に、疑いなく受け手のほうへと飛んでいく。書き言葉にはいつだって迷いがある。読み手はそこにいない。そもそも読み手がいるのかどうかすらわからない。どんなふうに言葉が流れていくのか、読み手がどんな顔をしてそれを受けとるのか、書き手はいわば頭のなかで想像するしかない。
 
 今、ぼくは中心街からすこし離れた大学のキャンパスの、じぶん1人しかいないガラガラの教室でこれを書いている。大きな灰色のヒラメのような雲がちょうど窓の対角線上を泳いでいる。雲のしたにはなだらかな丘。そしていくつかの素朴な人家。右端にはプラハの町並みがチラっと見える。
 外国で、家の外で、何かを書くのはとても気分がいい。言葉が自然にでてくる気がする。この街には、数人の日本人をのぞくと、ぼくの書く文章の潜在的読者はいない。そのことが言葉をより素直なものにしてくれる。



(写真はペトシーンの丘にある偽エッフェル塔からの眺望。最近やっと生活が落ち着いてきた気がします。)


 

2014年10月12日日曜日

10.10 わたしのトラブル


  昨日(10月10日)は、プラハに来てから最も長く、タフな一日だった。

 まずこの日、ぼくはチェコの税関で止められていた荷物を取り返しに行かなければならなかった。荷物のことを知らせる手紙を読んだのが7日の火曜日( じつは20日前に寮に届いていたのだが、寮からの説明が不十分だったために受け取りが遅れた)。そこにはよく見ると内容をおおまかに英訳したサイトのリンクが小さく書いてあったが、手紙自体はすべてチェコ語。おそらくかなり重要な知らせが、じぶんにはほとんどわからない言語で書いてある。この時点でこちらのストレスはかなりのものである。チェコが嫌いになってもおかしくない。
 しかもその手紙には、荷物を送って欲しくば、その内容(具体的には研究に必要な本・厳しい冬を越すためのコート類・お気に入りのワックス・先生からもらったゴジラのフィギュア)が私有物であって商品ではないことの宣言と、服なら服、本なら本を購入したことを示す領収書の類いが必要だと書いてある。ここでぼくのストレスは許容量を完全に上回る。
 段ボールにつめこんだ全てのもののレシートなんて、あるハズがない。あったとしても、たまたま留学先にそんなレシートを持ってきているハズがない。万事休す。これが本場のカフカ的不条理か。荷物は最悪破毀される可能性がある。ぼくの絶望は相当なもので、この時チェコはぼくにとって完全に敵だった。

 しかし幸運にも、以前日本の大学でチェコ語を教えていたチェコ人のH先生の助けを得、どうやら住居の証明とパスポートのコピーなど簡単な書類をもって直接税関/郵便局に行けば荷物が返ってくるかもしれないことがわかった。ということで、ぼくは10日の朝、城へと向かう測量士Kさながら、巨大な官僚制との闘いを前に、士気を高めつつ、黙 々と準備をしていたのである。
 が、そこに災難が降りかかる。日頃から貴重品を入れている小さな箪笥の鍵が、ちょうど鍵穴に指しこんでガチャガチャしているときに、ねじれて折れてしまったのだ。当然鍵は閉ったまま。箪笥のなかには荷物を取り返すために必要な書類がまるまる入っている。明後日の方向をむいて数分間放心したあと、どうしようもないので寮のレセプションへ。 どうにかカタコト(以下)のチェコ語で状況を説明すると、すぐに鍵屋を呼んでくれた。意外にもこの鍵屋はすごかった。電話してものの数分でぼくの部屋に到着、鉄製の大きな釘抜きのような工具で箪笥を破壊しつつも鍵穴をまるごと取り出した。驚くべき速さで仕事を終え、爽やかに帰っていった。

 朝は大幅に遅れることを予想していたが、 我が寮特有の(?)局所的迅速さのおかげで、ほぼ予定どおりに郵便局/税関に辿りつくことができた。正午。こころの準備はできている。H先生からのアドバイスを思い起こす。「絶対にチェコ語は喋るな。英語で押し通せ」。
 アドバイスに従ってはみたものの、職員のほうはこちらの予想よりも英語ができず、そのためか郵便局と税関を3回ほど往復させらたが、とにかく手続きは1時間ほどで完了、無事に荷物を引き取ることに成功した。誇らしい気持ちで段ボールを抱え、トラムを乗り継いで寮へ帰る。ほっと一息、つく間もなく、シャワーを浴び、寮の地下二階、パーティールームへ向かう。午後4時。日本人の留学仲間たちと韓国人Oとで「手作り餃子パーティー」を開くのである。
 チェコで餃子をつくる。なかなかおもしろい経験だった。ヨーロッパで韓国人や中国人と一緒にいると、やはり大きな文化的基盤の存在を感じる。料理などしていると特にそうである。わざわざ喋らなくても自然と「阿吽の呼吸」のようなものが生まれる。ここにぼくの知る限りトラブルはなく、アジア的和やかさのなかで美味しい餃子を食べることができた。

 さて、午後8時、餃子パーティーを早々に抜け出し、次なる現場へ向かう。スペイン人Mのフラットでの夕食に招かれたのである。夕食! スペイン人の夕食は遅い。10時過ぎることも稀ではないとか。すでに餃子で一杯の腹を抱えてPankrácというメトロの駅へ。駅につくと、そこにはフランス人Ch、H、L、そしてスペイン人Mの姿が。ぼく意外みなラテン系である。餃子パーティとのギャップは大きい。
 近くの大型ショッピングモールで買いものを終え、フラットへ。みんなでTortilla de patatas(スペイン風オムレツ)をつくる。ぼくにとっては本日二回目の料理/夕食。こちらも大変美味であった。調子に乗って食べ過ぎる。フランス人C、アルゼンチン人Mが合流。食事のあと、なぜか母語で有名な歌をそれぞれ歌おうという流れになり、それぞれ「見上げてごらん夜の星を」、"Volare"、"Non, Je ne regrette rian"を歌い、お次はDrinking gameをすることに。このゲームで惨敗したぼくは大量のラムを飲むハメになった。
 
 どうやらぼくは吐きやすい体質のようで、酒に酔っていなくても、たとえば食べ放題やビュッフェなどに行くとつい食べ過ぎて吐いてしまう。なにか胃にいれてから吐き気を催すまでのタイム・ラグが大きいというか。吐き気の反応が鈍いというか。消化器の蠕動が激しすぎるのか。中高生のときに焼き肉食べ放題に行ったあとに吐いてしまい、友人たちに笑われてたのをよく憶えている。
 とにかく、昨日のぼくはバカだった。ビール、餃子、ビール、ワイン、パン、チーズ、ワイン、オムレツ、ラム、ラム、ラム。食べ過ぎ×飲み過ぎ。税関での勝利に浮かれていたのかもしれない。やはり最後のラムが効いていたらしく、フラットから次の目的地を目指してダウンタウンへトラムで移動しているときに急に吐気をもよおし、途中下車して嘔吐。そんなぼくを見かねたChが、親切にも、じぶんの部屋に空きベッドがあるからよかったら泊まっていってもいいと言ってくれる。じっさい1人で寮まで帰る気力もなく、恥を忍んで厚意に甘えることに。ここで皆と別れ、Chの部屋へ。トラムで3駅のところだったが、部屋の最寄り駅で堪えきれずまた嘔吐。あやうくトラムに吐瀉物をまき散らすところだった。

 旅の恥はかき捨てというが、留学の恥はそう簡単にかき捨てられるものではない。土地が忘れても、人が憶えている。
 ぼくの好きな画家フランシス・ベーコンは、「じぶんの絵は、ナメクジのように人間存在の跡を残しながら人間が通ったことが感じられ、ナメクジが粘液を残すように過去の出来事の記憶の跡をとどめるものであってほしい」と言っている。とはいえ、さすがにぼくのゲロとベーコンのナメクジとでは対比にもならない。



(写真は上述のゴジラ。今回は、 長くて汚い話ですいません。)

2014年10月4日土曜日

風邪気味、メランコリー、留学

 
 今日は風邪気味なので部屋で安静にしていることに決めた。季節の変り目だということもあるだろうが、年甲斐もなく毎晩よる遅くまで飲み歩きすぎたのかもしれない。

 そもそもぼくはあまり頻繁に夜遊びできるタイプの人間ではない。とくに夜が明けるまでパーティーなどがあった日の翌日は、何もしたくなくなる。人は皆だいたいそうなのかもしれないが、ぼくの場合は極端で、ほんとうに何もしたくなくなるのである。ほとんどオブセッションといっていい。体の奥のほうがなにかとても柔らかくて繊細な生きものにでもなってしまったかのように、外気に触れたくない、外に出さないでくれと囁くのである。そんな内からの声を何日も無視すると、今日みたいなことになる。

 この週末、何人かの愛すべき友人たちはミュンヘンにいてプラハにいない。エラスムスの学生のための大きなバスに乗って、有名なオクトーバーフェストを見にいった。じつはぼくも行く予定だったのだが、止めることにした。ヴェネツィア留学の際にできた親しい友人Mが、たまたま妹の引っ越しの手伝いのためミュンヘンを離れているらしいからだ。完全に行き違いである。ミュンヘンに行くんだったら、Mに会いたい。Mのいないミュンヘンには、ほとんど行く価値がない。ヨーロッパのいくつかの街は、すでにぼくにとってはそのようなものになっている。
 
 日本をはなれて三週間弱。プラハももう身体に馴染みはじめている。それと同時に、チェコ語も耳に馴れはじめた気がする。文法的には恐ろしく複雑な言語だが、音としてはほかのどんな言語とも等価である。頭はついて行かなくとも、自然と身体は覚えていく。人間の、というより動物の、適応能力とは、ほんとうに凄まじいものだ。

 ヴルダヴァ川を見ると、すでに郷愁に似たものを感じてしまう。一週間ほどまえ、フランス人主催のフラット・パーティーで、同じ学部のアルゼンチン人がプラハをメランコリックな街だと言っていたが、ぼくもそれに深く同意する。メランコリーと郷愁は、なぜかぼくのなかで強く結びつく。
 メランコリーは古代ギリシャ時代から大きな罪とみなされ、長い間その病因は身体のなかの「黒い胆汁」だと思われてきた。人を憂鬱にさせ、やる気をなくさせ、愚かしい行動をさせるもの、そのような気分障害のほとんどが、メランコリーによるものだとさえされていた。たぶん、メランコリーのもつこのような停滞の感じが、郷愁の感覚と繋がるのである。それは未来へと人の背中を押してくれるようなものではない。かといって、人を過去に縛りつけるだけのものでもないだろう。

 留学とはたいがいそういうものである。と、ぼくは思う。着いたときには、もう去るときのことを考えている。あるいは「なにを見てもなにかを憶いだす」。だから留学の地は、つねに過去と未来が行き交う交差点のような場所になる。その点は、現在とも少しちがう。過去と未来のあいだで漂う、ふわふわした中空地帯である。



(写真はプラハ城近くのHradčanské náměstí. 今回はすこし文体が堅めですね。まだまだ試行錯誤中ですが、とうぶんこの感じで書くと思います。)