今日(8日)はとても良い日だ。
とくに何があるわけでもない。ただ天気が良いのである。それだけのことで、こころが跳ねあがる。
晴れの日のすくない土地に暮らしていると、ときどきこういうことがおきる。まだ冬は始まったばかりで、これからどんどん寒さが厳しくなっていくというのに、なんだかイースターを先どりした気分だ。
どうしてもじかに陽の光を浴びたくなって、急いで部屋をでる。The Beach Boysの"Pet Sounds"を聴きながらトラムに駆け込んだ。
寮からほど近いレトナー公園のベンチで本を読み、座り疲れたので街のカフェにでも移動しようかと思った矢先、財布を持ってくるのを忘れたことに気がついた。仕方なく寮にもどってきたのだが、それでも気分がよいのでこれを書いている。
じぶんのマヌケ加減に呆れつつMalostransá駅でトラムを待っていると、カシウスがニコニコしながら35番のトラムから降りてきた。地図に載っていない番号のトラムだ。
このブログに登場するのは2回目だが、カシウスはぼくのルームメイトである。カシウス・マヌエル・ペレーズ。スペイン人だが、きれい好きで、何かにつけてぼくよりもよっぽどキチンとしている。机のうえもいつも整理されていて、ぼくも幾度か彼の整頓術を盗もうとしたが、実りは少なかった。
カシウスは数学を勉強している。それなのに(と言わざるを得ないのが哀しいが)、たくさん小説を読んでいる。音楽の趣味もいい(お気に入りはGorillazとGould。これだけでもう言うことなし)。絵画も好きで(ゴヤについて色々教わった)、今日もひとりでプラハ城近くの国立新美術館に行ってきたようだ。本業の数学もたいしたものらしく、何年か前にスペインの数学オリンピックで5位になった。
ある日の午後、彼はちいさな花鉢を抱えて帰ってきた。ピンクのかわいい洋菊である。どうせ女の子にでもあげるのだろうと思ったら、なんとぼくらの部屋のために買ってきたのだという。枯れそうになった花をみて彼は哀しみ("Shit, I'm sad. It's dying")、元気になった花をみて嬉しそうに笑った("I'm proud of her. It survived.")。
カシウスと話していると、世界が多様であることに気づく。というより、世界が一様ではないということに気づく。世界が一枚の絵だとすると、それはけっして一色で塗られていない。とはいえ、ボーダー柄に塗られているわけでも、世界地図のように国ごとに色分けされているわけでもない。あえていえばどの部分にも色の濃淡があって、マーブルのように溶けあっている。そんなイメージを与えてくれる。
と、言葉にするのは簡単だが、この感じ、じつはなかなか掴むのが難しいんじゃないかと思う。ぼくも日本を離れるまでは世界について違うイメージをもっていた。
そういえばカシウスにもこんなことを言われた。
−−でもさテリー、お前、高校生とかそのくらいのとき、将来イタリア語とかチェコ語を勉強することになるなんて思ってなかっただろ?
−−そうか、イタリアは『ライフ・イズ・ビューティフル』、チェコは『存在の耐えられない軽さ』がきっかけか。そんな風に留学先を決められたのは良いことだね。すごく文化的で。
(小説や映画などの)「文化」的な理由で留学先をきめること。あるいは単純に、ある国へ憧れをもつこと。これは日本人にとってはわりと普通のことだ。でも、たしかどこかで内田樹も書いていたが、たとえばヨーロッパの人間にとってはすこし不思議なことであるらしい。なぜなら彼らにとって(少なくともヨーロッパ圏内の)文化はいつもより具体的なかたちで、わかりやすく言えば人間のかたちをして現れるので、ある国のイメージを「文化」で型どる必要がないから。逆にいえば、日本人は「文化」と呼ばれるものを通してしか海の外と繋がれない変わった国民だということだ。
文化というとどこか深いものだと考えられがちだが、映画を観たり小説を読んだり音楽を聴いたりするだけで底がみえてしまうようなものが文化なら、それはつまらない、浅いものだと思う。カシウスと話していると、そんなことを考えさせられる。
ただやはり、ステレオタイプとは言わないが、身体に刻みつけられた国民性のようなものはじつに存在する。夜おそく部屋のドアを開け、読書灯の明かりのなか女の子とイチャつくスペイン人を見るたび、そう確信してしまう。
(写真は上述のレトナー公園。こんな天気が続いてくれればいいんですが……)
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