2016年8月29日月曜日

ホウビ、ハルパ、ベプショ。あるいはチェコの自然:サマースクール編(その2)


 先々週末はアンナの家族のコテージに行ってきた。チェコの自然に触れ、肉をたらふく喰い、そしてキノコ狩りをした。念願叶ったり、である。
 じつは一昨年の秋、チェコに来て間もないころにも大学のチューター(世話係)だったMにコテージに誘ってもらったのだが、あいにく悪天候のために中止となった。チェコ語を勉強しはじめてわりと早い段階から「コテージ+キノコ狩り chata/chalpa+sbírání houby」はぼくにとっての「最難関To doリスト」に挙がっていたので、当時は「こんなに早く目標を達成してよいのだろうか」と思ったものだが、この不安(?)はみごと杞憂に終わったのであった。とにかくそれから二年後のこの日、ようやく思いが遂げられたというわけだ。
 今回の旅のお供は、恒例アンナ・イゴル夫妻(結婚おめでとう!)、アンナのお母さん、そして研究室の後輩T。8月19日の昼にプラハを出て、アナのお母さんの運転のもと、プルゼン/ピルスナー方面に車に走らせることおよそ1時間、Mlečiceという小さな村に到着。さっそくコテージへと招かれたわけだが、このコテージがなんとも素晴らしい。広く整った庭と、そこに植えられたリンゴや洋梨、プルーンなどの木々に覆われた白と茶色のシンプルな「chalpa ハルパ(大きめのコテージ)」は、なんと築200年以上だという。なかには暖炉があり、元子供部屋現客室があり、キッチンがあり、書斎もあり、もちろん寝室やリビングもある。あまり大げさになってもいけないが、これはおよそほとんどの日本人が頭に描く「理想のコテージ」だと思った。それくらい、居心地がよいのである。 「コテージで一番いいのは、外が大雨で、家のなかだけが静かな時だね」とイゴルは言っていたが、そんな時に暖かいコーヒーでも飲みながら読書をしたり書きものをしたりするのは、さぞ粋なものだろう。
 初日は村をすこし散策してから庭でBBQをした。ぼくはわりとよく食べるほうなので(豚肉 vepřoのローストを4、5枚たいらげた)、「こんなに細い日本人がこんなに食べるなんて信じられない!」とか「彼の胃袋は底なしだ」とか言われながら、楽しく夕食を終え、翌日にそなえた。
 さて、待ちに待ったキノコ狩りである。ぼくらは朝7時頃に起床し、ライバルに先を越されないよう早々とちかくの森に向かった。みなキノコ用の籠とナイフをもち、虫除けスプレーをふりかけ、長袖長ズボンで準備万端である。とはいえ、キノコ狩りはもちろんそれほど派手なスポーツではない。基本的にはただ黙々と地を這うように視線をはしらせ、なにか見つけたときだけ声をあげる。よく言われることだが、チェコ人は基本的にみな「キノコの専門家」で、食用かそうでないかを見わけることは簡単なようだ。ただぼくら日本人は見つけたものをとにかく籠にいれ、イチイチ専門家に訊いてみないといけない。せっかくの獲物を「これもダメ、これは食べられない、これもダメ…」といってほとんど捨てらてしまうのは、なかなか哀しいものがある。しかしわれわれもバカではない。1、2時間もすれば基本的な種類はだいたいの見当がつくようになる。白くて脚の長い、スタイリッシュなBedla。エリンギのように太いが、地面に埋まっているため見つけにくいHřib。そして一番よくある(ゆえに見つけてもあまり嬉しくない)Klouzek。森にはところどころに野生のブルーベリーも生えており、それをつまみながら楽しい狩りに精をだした。
 3時間ほどしてそろそろ帰ろうかという頃、うしろ髪を引かれるようにまた別の林にはいった。木々は背が低く密集し、土はよく湿っている。これまでの森とはなにかが違う。狩りを始めてそうそう、声があがった。「Ježíš Maria! (英語でいうところの"Oh my God!")」アンナが巨大な双子のHřibを見つけたのである。それに続き、ほうぼうから歓喜の雄叫びが響く。ぼくもかなりの大物を見つけた。みな興奮し、まわりの木々が引っかかろうがお構いなしにナイフでキノコを削りとる。できるだけ腰をおとし、地面と水平に視線を伸ばすと、キノコの頭がぽっくり突きでてみえる。なかには来客を待ち構えていたかのように堂々と鎮座するキノコもあるし、人を寄せつけないほどの神聖さを感じさせるキノコもある。つぎつぎに現れるキノコに一喜一憂しながら、さながらドワーフにでもなったような気分だったぼくらは大満足でコテージに帰り、ずっしり重いキノコ籠をもって記念撮影し、昼下がりにはプラハへ帰った。

               *   *   * 


「コテージ+キノコ狩り」体験は、いろんな意味で期待以上のものだった。チェコの自然、そしてそれを楽しむ術を心得たチェコ人の豊かさに嫉妬したくらいである
 われらが日本も自然豊かな国だ。それは間違いない。しかし都会では、自然が驚くほど生活から切り離されてしまっている。神戸の片田舎出身なのでより痛烈に感じるのかもしれないが、プラハのような都市にしても田舎にしても、チェコでは自然というものがいかに日々の暮らしに溶けこんでいるのか、まざまざと見せつけられる。
 ぼくはいわゆるエコロジストではない。「自然に帰れ!」というつもりもなければ、動物愛護団体にもはいってないし、ヴェジタリアンでもない。それでも、ふりかえって東京の生活を考えると、その基盤のなさに驚かされる。というより、生活の基盤がすべて「商品」になってしまっていて、なにをするにもお金がかかる。しかしこの国では、日々の生活にずぶとい「根っこ」が生えている、という感じがする。自然というものが、レジャーとしてだけでなく、暮らしの支えとしてしっかりそこにある。この季節だと、腹がへったらそこらへんのリンゴをもぎって食べればいいし、喉がかわいたら、たとえばペトシーン公園にでも行けばおいしいプルーンがやまほど手にはいる。東京では歩いて5分でコンビニがあったり、ファミレスがあったりするわけだが、こういう「贅沢」をポケットの財布なしで経験することはできない。週末に田舎のコテージにいってのんびりと時を過ごす習慣だって、金持ちの特権ではなく、こちらではごく一般的なものである。ありきたりな感想だが、豊かさとはなにか、考えさせられた。
 チェコ滞在も終わりに近づいたいま、遠く故国から聴こえてくるのは、金属製のキリキリした音である。




(写真は収穫の一部。右下に見える白く美しいキノコがBedla。薄くスライスしてバターで焼き、パプリカで味付けしたあと、パンにのせて食べる。その右横にあるのがHřib。エリンギのように太く、松茸のように美味い。ぼくらは後日フライにして食べた。そしてそのほか大多数がKlouzek。一番メジャーな種類。肉が黄色がかっているのが特徴で、日本でいうとシメジ的ポジションだろうか(でも個人的にはシメジより好き)。

2016年8月12日金曜日

母語が頼りなくなること:サマースクール編(その1)


 1ヶ月だけだが、チェコに帰ってきた。7月26日にプラハに到着して、8月1日から研究ついでにいわゆるサマースクールに通っている。
 この夏期学校、プログラムとしてはカレル大学の哲学部に所属しており、正式には「Letní škola slovanských studií スラブ語学サマースクール」という。ほんとうはちゃんとチェコ語のウォームアップをして準備万端で臨むはずだったのだが、不慮の事情がもろもろあって、例のごとくまた準備不足のぶっつけ参加になってしまった。ここらへん、われながらまったく成長しない。

 それはともかく、今回のサマースクールには正直すこし戸惑っている。じつは去年もべつのサマースクールに通ったのだが、そちらは社会人と学生がいり混じった、どちらかというと実践むきの、Ujopという語学学校でのものだった。能力別におそらく全部で4つか5つに分けられるクラスのうち、僕のはいったクラスには生徒が5人ほどしかおらず(たぶん全体でも50人に満たないだろう)、先生は期間中ずっとおなじで、授業は4時間ぶっつづけ。いろんな意味でかなりインテンシヴだった。
 しかし今回はそれとはまったく違う。生徒は200人をゆうに越えているし、レベルは同じく4つあるが、さらにそれぞれ3つにわけられ、全部で12のクラスに細分化される。授業の内容にもかなり幅があり、一番上のクラスはものすごくハイレベルで(なんと母国でチェコ文学を教えている教授なども学生として出席している)、望めばアカデミックな講義も受けることができる。授業は1日に4つとることになっていて、必修科目と選択科目の組み合わせという感じ。平日は授業後、土日は朝からエクスカーション的な観光ツアーがきっちりプランされているし、学生に斡旋される寮にはご丁寧に朝・昼・夜と毎食メンザ(食堂)での食事が用意されている。見方によっては「至れり尽せり」というわけだが、基本的に団体行動や緊密な計画というものが肌にあわない僕にとっては、間延びした修学旅行みたいでぜんぜん落ち着かない(ちなみに僕はエクスカーションにまだ一度も参加してないし、寮での食事もほとんどしていない)。
 いやはや、先が思いやられる……という感じだが、愚痴めいた現状報告ばかりしていてもしょうがない。もうすこしマシなことを書きましょう。

*   *   *

 数日前にきづいたことだが、僕には日本をしばらく離れるとどうしても聴きたくなる音楽がある。Thee Michell Gun Elephant, Rosso, The Birthdayなど、チバユウスケという男を中心に結成された一連のバンドの曲だ。なかにはわりと複雑な構成のものもあるが、基本的にはブルース、パンク、ロックを基調としたシンプルな曲をつくる。曲もいいし、声もいいし、歌もいい。しかし僕にとってなんといっても重要なのは、チバユウスケの書く歌詞だ。キレアジバツグンである。たとえばこのごろ毎日聴いているThe Birthdayの「シルエット」という曲のサビは、

シルエットは 
思ったより 
長くて僕は
巨人になってた 
夕焼け色 
燃えあがってた
すぐそば 
隣で

という、じつに簡単な、けれどもすごく印象的で強い言葉で書かれている。このあとには「これならお前を/守れるだろう/どんな/ものからも//そう思ってた」という、すこし恥ずかしい言葉がつづいたりもする(最近のチバは意図的にこういうストレートな詞を書いているように思える)。しかしなんにしても、16歳のときにニュージーランドにホームステイした時からヴェネツィア留学をはさんで現在にいたるまで、僕は日本のそとではずっとチバの詞に頼ってきたし、そのたびに安心させられてきたのである。

 その理由が、数日前にわかった。曲調に元気づけられるということもあるが、なによりも僕の母語が頼りなくなっているのだ。
 単に日常の場面で使えないという意味でも頼りないし、日本語の世界そのものの基盤がゆらいでいるという意味でも頼りがない。外国語の侵入によって母語が弱くなっていると言ってもいい。だからチバユウスケの歌詞のように強くて頼もしい言葉がほしくなる。そういう言葉にしがみつくことによって、なんとか日々の安定をたもっている気がする。

 頼りないとか弱いとかいうとネガティヴに聞こえるが、僕はこの状態が嫌いじゃない。この状態になると、自分にとってどうでもいい言葉は見事に出てこなくなる。いらない言葉は遠くの靄のむこうで見えなくなるし、大事な言葉は手づかみできるくらい近くに感じる。これがずっと続くのがいいことだとは思わないが(だからやっぱりクンデラには同情する)、でもたまには、こうやって母語を濾過してみるのもいいだろう。
 


(写真はプラハ郊外、ヴルタヴァ川沿いのModřanyという駅で撮ったもの。イメージとはだいぶ違うのでしょうが、プラハにはこういう一面もあるのです。時にロックなのです。)

2015年9月1日火曜日

留学後記

 
 帰国してから2週間ほど経った。一昨日は国会議事堂前のデモにも行った。でもまだこの国には馴染めていない。
 そのことで逆に、プラハでの1年間がどれだけ僕のなかに浸透していたかということがわかる。

 今回の留学生活を包みこむものとして、7月のある情景が残っている。
 
 僕はプラハ行きのバスに乗っている。Úherské hradistěというモラヴィアのちいさな町で毎年開催される映画祭から帰る途中だった。IとAの恒例チェコ人カップルが誘ってくれた、くだらないものから古典的なものまで幅広いジャンルの映画が観れるイベントで、夜は安くて美味しい白ワインと(例のごとく)大量のビールを飲み、千鳥足でホステル代わりの学校まで歩き、教室の隅にある寝袋へもぐり込んだ。町で出会うのも同年代の若者がほとんどで、雰囲気はさながら60年代のヒッピーのキャンプのようだ。Iは僕がちゃんと楽しんでいたか不安がっていたみたいだが、大丈夫、ほんとうに楽しかった(というよりゴメンなさい、感情をうまく外に出せない僕が悪いんです)。Úherské hradistěで過ごした3日間は、僕にとってはちょっとしたユートピアだった。

 チェコという国が僕のなかに決定的に棲みついたのは、たぶんこの旅のあとからだったと思う。帰国の日が着々と近づいてきていたことも勿論あるだろうが、それ以上に、プラハとちがって外国人観光客がほとんどいない町で、チェコでできた友人と親密な時間を過ごせたということが大きかった。語学的にはまだまだで、彼らのチェコ語会話にはなかなかついていけなかったものの、この旅を終えてはじめて、この国にいくらか根を下ろしたという気がした。

 チェコでの1年間はほんとうに意義深いものだった。予習不充分の「飛び込み留学」だったが、その分、じぶんで発見する楽しみと、未知なものへの素直な驚きがあった。
 プラハという街自体にもなかなか言いがたい魅力があった。華々しい観光スポットがあるかと思えば、頭のイカれた浮浪者や、ヤク中の若者が集まる地区がある。青空と緑豊かな公園が広がるかと思えば、いつの間にやら妖しい夜になっている。この街の生活には、曲がりくねった路地や変わりやすい空模様にあわせて自分が緩やかに変化していくような、独特の感覚がある。

 しかしひとことで言えば、何よりあそこには自由があった、という気がする。束縛からの自由。これはなにも特別なことではなく、どんなところでも誰にとっても、長年住んだ土地はある種の束縛になる。母国から離れ、留学生のように期間限定で生活をすることに、束縛は存在しない。縛るものがあるとすればそれは本人だけである。ユダヤの格言がいうように、いくら旅をしてみたところで、自分自身から逃れられるわけではない。
 いずれにせよ留学の地では、つねに新しいものが待ち構えている。そして新しさの領域には、かならず自由がある。たぶん留学するということは、問いつめる未来も従うべき過去もないところで、浮遊するということだ。日本という国をわりと疎遠に感じる今思いかえすと、プラハ行きのバスでの印象がこれほど記憶に残っているのもこの浮遊感が関係しているのもしれない。

 どこまでも平らな草原へ落ちていく夕焼けに、ザアザアと雨が降る。空がすっきり洗い流され、待ちぶせていたように虹が架かる。冗談みたいな光景に、一瞬じぶんが何処にいて、何処へむかっているのかまったく分からなくなる。電灯の消えた車内は暗闇にすっぽり包まれていて、外の世界からは強いコントラストを生むオレンジ色の光だけが入ってくる。乗客はみんな興奮気味だ。僕もふしぎな感動に打たれながら窓のそとの空を眺めた。

 人生は今、はるか上空を飛んでいる。まっすぐ、脇目もふらず飛んでいる。僕はといえば、それを他人事みたいにぼうっと見上げているだけである。



(写真は帰国前日に撮ったもの。ありがとうプラハ、また会う日まで!)

 と、今までこのブログを読んでくださった読者の皆さん、ありがとうございました。とりあえずここで一旦区切りをつけます。が、プラハにはまた戻る予定ですし、なにか別の形でネットに文章を書くかもしれません。なので、その時まで! 

2015年5月26日火曜日

続・偶然について


 昨日はとくになんの予定もないはずの日だった。
 というか、入ってるはずの予定を忘れて、いつも通りボケボケしていた。

 その予定とは、日本から来た5人組のバンド(宣伝したい気持ちはあるが、とりあえず以下Kとする)のライブイベントだ。チェコ人で日本文学を勉強している友人Iのお兄さんSがイベントのマネージャーをやっていて、その関係で、数ヶ月まえから誘われていたのだった。
 いきなり冷え込んだということもあって、持ち前の怠惰さに負け、危うくすっぽかすところだったが、夜9時前、なんとか踏ん張ってライブハウスへ向かった。Vltavskáという駅の近くにある、パッとみた感じでは廃墟のようなところだ。すでに建物の前には酒とタバコとロックンロールな若者たちがたむろしている。
 
 なかへ入ってみるとかなり大きなライブハウスで、すでにチェコのバンドの演奏がはじまっていた。今日のライブに出演するバンドはKを含めて4つで、おそらくそれは2番目のバンドの最後の曲だった。たいして期待していたわけでもなかったのだが、意外と音はよく、まぁ250コルナ(1200円ちょい)払った甲斐はあったな、と思いながら聴いていた。
 Iとその彼女のAと合流し、いつものようにとりあえずビールで乾杯し、次のバンドの演奏がはじまるまで、いったん外にでて雑談。Kのメンバーらしき人たちが階段に座っているのが見える。プラハで、しかもここのように地元の人間しかこない場所にいると、日本人というだけで十分に「浮く」のだが、ヒッピー風の特徴的な格好をしている彼らは、相当に目立っていた。そのなかでもとりわけ目立つ人がいて、やたらと知り合いに似ているなと思った。

 休憩が終わり、Kの演奏がはじまる。とてもライブ映えするパフォーマンスで、ジャンルでいうとサイケデリック・ロックに入るだろうが、ジャズのリズムをうまく取り入れていたのが印象的だった。プラハの観衆も盛り上がり、大きな歓声があがる。ぼくも日本人としてなんとなく誇らしい気分になる。
 しかし、ステージの右端にいたギタリストの動きを見ているうちに、いや、やっぱりぼくは彼と知り合いなんじゃないかと思いはじめした。あの顔と雰囲気は、どう考えてもDさんじゃないか、と。演奏中だったが、暗がりのなかで急いで携帯をとりだし(失礼!)、ネットで調べてみた。すると、やはり、そうだったのだ。「Dさんだ!」嬉しくなったぼくはチェコ人カップルにも報告し、残りの演奏をそれまでとは違った感慨をもって聴いていた。

 Dさんは、ぼくが所属していた大学のゼミの先輩である。2・3年上の学年だったので、ともに勉強する機会はほとんどなかったのだが、ゼミや打ち上げで何回か会ったことがある。でも、ちゃんと話したことはなかったと思う。ただ、顔と名前が特別に覚えやすかったということと、たまたまぼくがクンデラの『存在の耐えられない軽さ』(またかよ)のプレゼンをしたときにゼミに遊びに来ていて、「おもしろいということはわかったんだけど、たぶん読まないと思います」というような発言をしていたので頭に残ったのだ。
 とはいえ、ぼくは彼が音楽をやっているということすら知らなかった。ましてや20以上の都市をまわる大規模なヨーロッパ・ツアーを敢行しているなんて。

 ぼくのことを憶えているかどうか定かでなかったが、一言声をかけて確かにわかったことは、Dさんとぼくを繋ぐこのゼミが、ぼくにとってはもちろん、きっとDさんにとっても、すごく大事なものだったということだ。ゼミの名前を持ちだしたときの彼の反応は、年下のぼくが言うのもなんだが、子供のようだった。

 このゼミが存在せず、先生と出会っていなければ、ぼくは文学を勉強してなんかいないし、ましてやチェコになんか来ていない。シタールとギターの心地よい轟音のなかから、ゼミの仲間たちや先生の顔が浮かんだ。「おい、S(ぼくの苗字)、いいのかそんなんで! ダメじゃないか!」 うかうかとプレゼンなどしてしまった時は、よくこんな風に先生に叱られた。


 それにしても、偶然というのはほんとうに恐ろしい。

 まったく予想もしていなったことが、さも当然のような顔をしてあなたの家に踏み込み、お茶の間あたりにドサッと居座る。あまりに目立つ、あまりに場違いなそいつのせいで、ある日を境に人生の風景がガラっと変わる。ということだってある。

 学者になるにしてもじぶんで何か書いていくにしても、今どき文学の世界に生きるのは大変だ。音楽の世界は、もっとそうだろう。「マトモな」神経じゃやっていけない、とすら言えるかもしれない。どうにかして現実以上のものを見つけだし、それに頼らなければいけない。
 だからぼくもこういう偶然をつかって、ぼんやりとじぶんのこれからを見立ててみるのである。
 

(写真はライブハウス前での一コマ。留学生活もあと3ヶ月弱。頑張ります。)

 

2015年5月20日水曜日

雨の指をもつ街


 雨が降っている。

 チェコの代表的な詩人ネズヴァルに『雨の指をもつプラハ』という詩集があるが、この街はほんとうに雨がよく似合う。
 もう5月も終わりに向かっていて、本来なら春まっさかりなのだが、それでもときどき雨が降ると、ああ、プラハは雨の街だった、と、思いだす。

 夜もそうである。プラハは昼間より夜のほうが良い。日没前のマジックアワー、空全体が少しのあいだ紫に染まり、その面影を引きずりながら、ひっそりと夜が訪れる。

 雨と夜。濡れた石畳みの舗道が橙色の街灯に照らされると、なんとも哀しげで、それでいてなんとも妖艶な雰囲気をかもしだす。「雨の指」が、プラハを撫でるのだ。ぼくの知る限り、こういう街は他にない。

                 * * *

 3ヶ月以上ブログの更新をサボっていた。チェコ語とじぶんの研究に追いまわされ、まったく時間がとれなかった。ここでの生活にも慣れ、前学期ほど刺激がなかったということも確かだ。
 それでも幾つか書くべきことはある。学部時代のゼミの後輩I、そして両親と妹の来訪。ブタペストとチェスキー・ラーイ(ボヘミアの天国!)への旅行。あとは先週の音楽祭「プラハの春」参加。
 新しい出会いもあった。エラスムスでフランス人のJ、タンデムパートナーのチェコ人B。カレル大日本学科の学生IとAのカップル。さらにクンデラ専門の教授で今や「きみ呼ばわり tykat」のČ教授。前期にくらべるとかなり「チェコ寄り」なラインナップである。ある人とはすぐに仲良くなったが、ある人からはすでに逃げ出したくなっている。 
 いずれにせよ、今期はチェコ語にどっぷりだった。授業は毎日、すべてチェコ語(語学)かチェコ語で行われるもの(文学)だったし、学校以外でも意図的にチェコ人の人たちと絡むようにした。自然とエラスムスの友人と出歩くことは少なくなったが、こればかりは仕方がない。身体はひとつしかなく、学期はふたつあって、しかもぼくは同じことを繰り返すのが苦手なのだから。
 ちなみにルームメイトのカシウスにはついに決まったパートナーができ、それはやっぱりいいことだと思った。

 そんなこんなで春学期も終わろうとしている。エラスムスの友人も、日本人の友人も、大抵はあと1ヶ月ほどでそれぞれの国へ帰っていく。彼らがいなくなったあとの暮らしはあまり想像ができないが、たぶん、かなり、静かなものになるだろう。でも、もしかしたら、さらにビール漬けの日々になるかもしれない。

 言い忘れていたが、プラハの春は美しい。日は長く、9時くらいまでは明るいし、なんとたくさん桜も咲く。近くの公園でビール片手にピクニックを楽しむ人も多い。ぼくの住む寮の裏にはブジェヴノフ修道院という緑ゆたかな庭園をもつ素晴らしい修道院があるのだが、天気の良い日にここで2・3時間本を読むのが最近の大きな楽しみである(比べられても迷惑だろうが、個人的にはこの場所はヴェネツィアのザッテレに匹敵する)。
 とはいえ、このぽかぽかした春がプラハの「真の姿」かと言われると、それはすこし違うように思う。この街の魅力の底知れなさは、陽の光では照らし出せないところにある。

 最初に触れた『雨の指をもつプラハ』に収められたある詩は、このように終わる。

上のほうをさす指 
黄昏の手袋をしたティーン教会の 
キクラゲのような雨の指 
涜された主人の指 
ひらめきをくれる指 
関節のない長い指  
この詩を書くわたしの指 
  (Vítěslav Nezval, Město věží, 拙訳) 

 残りすくない留学期間も、週に1度くらいは雨が降ってくれればいいなと思う。


  (写真は旧市街広場。奥に見えるのがティーン教会です。)  

2015年2月9日月曜日

エラスムスの最期(Part2. ヴェネツィア編)


 この街について書けることは少ない。

 書きたいことは山ほどあるが、言葉にするのがむずかしい。ヘタな言葉じゃまったく歯がたたないような、そんなところなのである。

 ぼくがヴェネツィアにいたのは2009年から10年にかけてのおよそ1年間。だから、だいたい5年前ということになる。
 そのころのぼくはまだ20代になったばかりで、世界は希望に満ちあふれ、あらゆるものは新鮮な光に包まれていた──というのはウソだが、どこからどう見ても現実ばなれしたこの島ですごした時間がぼくのふらふら病に大いなる拍車をかけたことは間違いない。ヴェネツィアに行ってなければ、いまごろプラハにいることもなかっただろう。たぶん。

 留学中はIsora di San Servolo サン・セルヴォロ島というところに住んでいた。そう、島に住んでいたのである。もちろんヴェネツィア本島のことではなく、ちいさな、ほんとうにこぢんまりとした、15分もあれば歩いて1周できるような島だ。ぼくらは島に住み、島で勉強した。じつはこの島全体が留学先の大学の敷地だったので、そこには校舎だけでなく、元精神病院だった寮兼ホテルや、ちょっとした運動場や、なにに使うのかよくわからないイベントスペースや、マズくて高い食堂や、わりと感じのいいバールがあった。

 時は下って2015年の1月2日。

 プラハでの年越しそうそう、ぼくはTとともにヴァネツィアに渡った。3日間の滞在、いわば里帰りの旅である。Tはセルヴォロ時代のルームメイトだったから、もちろんこの小島にも立ち寄った。じっさいにはあまりにも不便なので(本島との唯一の交通手段である水上バス vaporettoが、なんと1時間に1本しかなかった)、当時は半年で本島に引っ越したのだが、この島での思い出はどうしようもなく身体に刻みこまれている。たとえば真夜中に忍び込んだ教室。そこで観たオペラ。開け放った窓からアドリア海への立ちション。
 いくつかの店がなくなったり違う店になってたりはしたものの、ヴェネツィアは5年前となにも変わっていなかった。相変わらず美しかった。ただ、ぼくが5年間こころに思い描いていたイメージより、本物はずっとちいさな街だった。道はより狭く曲がりくねり、建物はより低くせめぎあっている。まるでミニチュアのなかを歩いているようだった。ヴェネツィアは、じっくり時間をかけて着々と、ぼくの頭のなかで1.5倍ほどの大きさにふくらんでいたのだ。

 ところで、この街についてイタリア人が話すとき必ずといっていいほど使われるフレーズがある。

 È diverso.

 今回はじめて出会ったイタリア人も漏れなくそう言っていた。簡単な言葉だが、日本語にはなぜか訳しにくい。英語にするとIt's different.となる。

 È diverso. ほんとうにそうなのだ。言葉の最高に精確な意味において、diversoなのである。なにか他のものから隔たっているということが美しさと結びつくということを、この島ほど強く訴えかける場所はない。

 異なるということは、孤独ということでもある。深い孤独は、おなじく孤独なものを引きよせ、ときには死を引きよせる(「ヴェニスに死す」のグスタフがそうであったように)。それほど大げさでなくても、この島に暮らしていると、だれもが時が止まったように感じるだろう。この島を動くのは、運河をながれる深緑の水と、なにか語りたげに吹きさるアドリア海の風と、その音に耳を傾けるあなただけ。イタリア本土からも孤立したこの島は、そこに住む者、訪れる者をひとり占めにしてしまう。

 この街では、ひとりひとりが否応なくヴェネツィアに向きあわされる。そうなったが最後、この街はあなたをけっして離さない。水と空気、ヒドいときには島の3分の1を沈めてしまう高潮 Acqua altaをとおして、それぞれのヴェネツィアを沁みこませてしまう。
 使い古された比喩でいえば、この島は、とんでもなくワガママで、独占欲旺盛で、それでいてどうしても憎めないファム・ファタールなのである。そして言うにおよばず、ぼくはいまだに彼女に振りまわされている。


(写真は夕刻のヴェネツィア。きれいですね。きれいなんです。今回はブログのタイトルに反して、堂々と浮気してしまいました。ごめんねプラハ!)

2015年1月29日木曜日

エラスムスの最期(Part1. 年越し編)


 なぜかここにいない人のことばかり書きたくなる。だれかがいなくなってしまったこと。いまそのだれかがいないこと。筆不精のぼくがなにか書く気になるのは、もしかしたらほとんどそんなことについてなのかもしれない。

 この1ヶ月で何人かの大事な友人に再会し、何人かの大事な友人がこの街を去った。ここずっとなにも書けなかったのも、そういうことで忙しかったからだ。ある人が目の前にいると、なかなかその人について書けない。別れが去ってはじめて、別れについて書くことができる。
  でも、いつも思うのだが、去ってしまったものについて書くのはぜったいに追いつけない相手にレースを挑むようなものなのだ。だからあまり差をつけられてしまわないうちに、再会のほうから書いていこうと思う。

2014年12月30日。妹とSの誕生日。
 夜8時頃、寮をでて、空港へむかう。日本から遊びにきたTを迎えに行くのだ。Tは5年来の友人。今はT市のシティー・ホールで働くオペラマニアだが、ともにヴェネツィアに留学した仲間であり、元ルームメイトでもある。
  そとは雪が降っている。澄んだ大気中でも白一面の道路でも、ところどころ凍った雪が街灯に反射して鉱石のように光る。最寄駅でバスを待つあいだ、粉雪が牡丹雪に変わり、傘に降る音もやわらいだ。
 じつはぼくの住む寮 Kolej na Větrníkuは空港に近く、バスに乗ると30分かそこらで着いてしまう(これだけが取り柄の寮である)。空港でさらに半時間ほど待つと、Tがゲートから出てくる。留学直前にも一度会っているので「感動の再会」というわけにはいかないが、なにより元気そうだ。その証拠に、顔が丸くなっている。

12月31日。大晦日のプラハ。
 この日の白眉はなんといっても街中で打ちあげられる花火だ。これほどまでにすごい花火は見たことがなかった。
  花火のクオリティーがすごいのではない。その数と、無秩序っぷりがすごいのだ。11時を過ぎたあたりから、いったい誰がどのように仕掛けているのかしらないが、とにかくランダムに、いたるところで打ちあがる。ふつうの爆竹もあるにはあるが、ほとんどは轟音をともなうかなり本格的なもの。しかも店の窓ガラスに直撃しようがお婆さんが驚いてすっ転ぼうがお構いなし。飛びかう悲鳴と歓声、通りを覆う煙、厳重に武装した警官、そして火薬の匂い。ふつう日本人がイメージする優雅な「花火大会」とはほど遠く、空気はむしろ戦場である。
 ぼくらはこの異様な雰囲気にアテられ、かんぜんに浮足だって、ムーステックに溢れる人々とともにカウントダウンし、屋台で買ったシャンパンで新年を祝う。どこから来たかもわからない外国人が(イタリア人がやたらといたのはたしかだが)笑顔でHappy New Year! と言ってくる。 海外での年越しはこういうところが楽しい。5年前のロンドンを思いだす。Šťastný nový rok! もちろんチェコ人の声も聴こえてくる。

 30分ほどカメラ片手にヴァーツラフ広場を練り歩いたあと、国民劇場のまえで仲の良い友人たちと合流。ドイツ人Aとその彼氏の同じくドイツ人M、イギリス人N、チェコ人Kとその彼女のイタリア人V、さらにチェコ人AとM。これにぼくたち日本人2人を合わせて計9人。けっこうな大所帯となった。
  ぞろぞろとトラムに乗り、ブルダヴァを越え、丘をすこしあがったカメニツカーで降りる。近くのパブに入り、いっしょにビールを飲む。われらがドイツ人カップルの飲みっぷりは流石なもので、重度の西ヨーロッパ人嫌いだと思われるチェコ人Aのメガネにも適った様子(「お前ら、おれが会ったなかで一番良いドイツ人だよ、ハハハハハ!!」「えっ、ほかのドイツ人? や、ドイツ人ってのはたいていどいつもこいつも……」)。
 その後、店にいた酔っぱらいと一悶着おこしてから、フランス人Chと合流するという名目でレトナー公園へ。昨日から残る雪でまっ白、深夜は3時を回っていたと思う。ものすごく寒い。さんざん彷徨ったあげくChに会うことはできず、悪天により美しいプラハの夜景をおがむこともできず、おまけに(一向に成長しない)ぼくはまたもや飲みすぎで吐くハメになった。

 朝6時ごろ、みんなにさよならを言うまえにひとり汚れた口を雪で洗う。丘のうえからかすかに見えるヴルタヴァが泪に滲む。バカにはちがいないが、なんとなく粋な気分で1日を終える。

2015年1月1日。元旦。
 目を覚ますと午後2時をとっくにすぎている。この日はミュシャ(チェコ語に忠実な発音では「ムハ」)の「スラヴ叙事詩」を観にいく予定だったのだけれど、時すでにおそし。茫然としつつも食欲には逆らえず、食べものをさがしに寮をでる。が、スーパーからカフェから、店という店はどれもしっかり閉まっている。しょうがないので部屋にかえり、クリスマス・プレゼントとして日本から送ってもらった即席麺を食べることに。「どん兵衛」と「ラ王」。立派な「年越しそば」である。なんとか胃を落ちつかせたあと、フランツ・カフカゆかりのカフェ・サヴォイまで足をのばし、お茶をする。正月から観光客まみれだが、さすがに良い店だ。カフェをはなれ、Tがカンパ美術館に行っているあいだ、ぼくは課題のエッセイを書くつもりでいったん寮へもどり(失礼!)、仮眠(失礼!!)。
 5時半ごろ、再度Tと合流し、予約してある行きつけのレストラン Konviktにむかう。Tにはここで筆者イチオシの「ブタひざ丸焼きVepřové pečné koleno」 を食べてもらった(猛々しくナイフのささったこの巨大な肉塊はぼくの大好物で、3日で2つ食べたこともある)。破裂寸前の腹をかかえて、つづくは市民会館でのニューイヤー・コンサート。ドヴォルザーク(チェコ語に忠実な発音では「ドヴォジャーク」)のスラヴ舞曲をぶっつづけで演奏するという珍しい公演だった。年明けから郷愁あふるるスラヴ的なものに触れることができ、感慨深かった。

 コンサートのあとTはまたKやAと会いたがったが、さすがにみんな二日酔い気味で、そとを出歩ける気分ではないらしい。というわけで、元旦の〆は、現代チェコを代表する作家ボフミル・フラバルが足しげくかよったことで知られるホスポダ、U Zlatého Tygraへ。ぼくの知る限りプラハで一番のビールをだす居酒屋である。
 「大」がつくほどの酒飲みのTも、ここのプルゼニュスキー・ブラズドロイには舌を巻いていた(ちなみにプラハ滞在中の彼のビールの飲みかたは常軌を逸している。席につくがはやいが500mlのビールをオーダーし、ウェイターが食事の注文をとるまえにそれを飲みほしてしまう。当然ながら、料理が来るときにはもう2杯目をなかば飲み終えている)。どうしたって観光客にしか見えない日本人ふたり組だが、地元のおっさんだらけの店内で閉店までねばり、部屋にかえって上機嫌で眠る。

1月2日。朝。
 Tとともに飛行機に乗ってイタリアへ。5年ぶりのヴェネツィアが待っている。


(写真は1月1日、餓死寸前の状態で撮影したもの。シリーズ「エラスムスの最期」、まだ続きます。)