雨が降っている。
チェコの代表的な詩人ネズヴァルに『雨の指をもつプラハ』という詩集があるが、この街はほんとうに雨がよく似合う。
もう5月も終わりに向かっていて、本来なら春まっさかりなのだが、それでもときどき雨が降ると、ああ、プラハは雨の街だった、と、思いだす。
夜もそうである。プラハは昼間より夜のほうが良い。日没前のマジックアワー、空全体が少しのあいだ紫に染まり、その面影を引きずりながら、ひっそりと夜が訪れる。
雨と夜。濡れた石畳みの舗道が橙色の街灯に照らされると、なんとも哀しげで、それでいてなんとも妖艶な雰囲気をかもしだす。「雨の指」が、プラハを撫でるのだ。ぼくの知る限り、こういう街は他にない。
* * *
3ヶ月以上ブログの更新をサボっていた。チェコ語とじぶんの研究に追いまわされ、まったく時間がとれなかった。ここでの生活にも慣れ、前学期ほど刺激がなかったということも確かだ。
それでも幾つか書くべきことはある。学部時代のゼミの後輩I、そして両親と妹の来訪。ブタペストとチェスキー・ラーイ(ボヘミアの天国!)への旅行。あとは先週の音楽祭「プラハの春」参加。
新しい出会いもあった。エラスムスでフランス人のJ、タンデムパートナーのチェコ人B。カレル大日本学科の学生IとAのカップル。さらにクンデラ専門の教授で今や「きみ呼ばわり tykat」のČ教授。前期にくらべるとかなり「チェコ寄り」なラインナップである。ある人とはすぐに仲良くなったが、ある人からはすでに逃げ出したくなっている。
いずれにせよ、今期はチェコ語にどっぷりだった。授業は毎日、すべてチェコ語(語学)かチェコ語で行われるもの(文学)だったし、学校以外でも意図的にチェコ人の人たちと絡むようにした。自然とエラスムスの友人と出歩くことは少なくなったが、こればかりは仕方がない。身体はひとつしかなく、学期はふたつあって、しかもぼくは同じことを繰り返すのが苦手なのだから。
いずれにせよ、今期はチェコ語にどっぷりだった。授業は毎日、すべてチェコ語(語学)かチェコ語で行われるもの(文学)だったし、学校以外でも意図的にチェコ人の人たちと絡むようにした。自然とエラスムスの友人と出歩くことは少なくなったが、こればかりは仕方がない。身体はひとつしかなく、学期はふたつあって、しかもぼくは同じことを繰り返すのが苦手なのだから。
ちなみにルームメイトのカシウスにはついに決まったパートナーができ、それはやっぱりいいことだと思った。
そんなこんなで春学期も終わろうとしている。エラスムスの友人も、日本人の友人も、大抵はあと1ヶ月ほどでそれぞれの国へ帰っていく。彼らがいなくなったあとの暮らしはあまり想像ができないが、たぶん、かなり、静かなものになるだろう。でも、もしかしたら、さらにビール漬けの日々になるかもしれない。
言い忘れていたが、プラハの春は美しい。日は長く、9時くらいまでは明るいし、なんとたくさん桜も咲く。近くの公園でビール片手にピクニックを楽しむ人も多い。ぼくの住む寮の裏にはブジェヴノフ修道院という緑ゆたかな庭園をもつ素晴らしい修道院があるのだが、天気の良い日にここで2・3時間本を読むのが最近の大きな楽しみである(比べられても迷惑だろうが、個人的にはこの場所はヴェネツィアのザッテレに匹敵する)。
とはいえ、このぽかぽかした春がプラハの「真の姿」かと言われると、それはすこし違うように思う。この街の魅力の底知れなさは、陽の光では照らし出せないところにある。
最初に触れた『雨の指をもつプラハ』に収められたある詩は、このように終わる。
上のほうをさす指
黄昏の手袋をしたティーン教会の
キクラゲのような雨の指
涜された主人の指
ひらめきをくれる指
関節のない長い指
この詩を書くわたしの指
(Vítěslav Nezval, Město věží, 拙訳)
残りすくない留学期間も、週に1度くらいは雨が降ってくれればいいなと思う。
(写真は旧市街広場。奥に見えるのがティーン教会です。)
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