2014年12月24日水曜日

21日の日記:偶然について

 
 21日の日記。


 ここ数日はいろいろなことがあった。今日から年末までは部屋でひとりだ。
 クリスマスのため、仲の良いエラスムス(ヨーロッパの交換留学生)の友だちのほとんどはじぶんの国へ帰った。ルームメイトのカシウスも。
 昨日はカシウスとKozelというぼくの好きな銘柄の黒ビールを飲み、パプリカ味のポテトチップスを食べながら映画を観た。彼にとっては初めてだが、ぼくにとってはたぶん3回目のWoody Alen "Annie Hall"。ふたりしてよく笑い、映画のあとはいつも通り夜おそくまで話した。

 留学を終えたらそのあとどうしたいのか。ぼくらはどこでなにをしているだろうか。カシウスは来年のいまごろ、スペインには居たくないという。フランスの大学院か大学で、フランス語を勉強したい。このまま順当に行けばいい仕事がもらえるのは間違いないけど、将来数学者としては働きたくないんだ。今は数学より人間と言葉と文化に興味がある。お前にも少しは責任があるんだぜ、テリー。お前と話してるとけっきょくそっちの話になるし、フランス語だって関係あるし、ほら、すくなくとも今おれがエンリーケ・ビラ=マタスを読んでるのはお前のせいだよ。彼は今朝「別れのポメッロ」と洋菊を残して部屋を去った。

 昨日の朝は偶然Lと会った。携帯のクレジットが切れたのでNárodní TřídaちかくのO2にチャージをしに行き、気分がよかったのでヴルダヴァ川沿いのSmetanovo nábřežíを歩いていると、むこうから彼女がやってきたのである。"Hey, this is crazy!!"

 じつはLとは一昨日も一緒にいて、この日の4時発の飛行機でパリに帰るという話をしていたのだった。「朝起きて天気が美しかったから散歩しようと思ったんでしょ?」("the weather is beautiful." Lはそう言った。日本語として不自然だが、直訳のまま残す。)
 8時半すぎだったと思う。この日の前日(つまり19日の金曜日)、Lからの電話があった。前話していたJazz Dockという店に行かないかとのこと。As soon as possibleというので9時半集合ということにして、急いで支度をして寮をでたのはいいが、なんと向こうは30分遅刻すると言ってきた。さすがラテン系、"Don't be late"とはよく言ったものである。

 国民劇場の外にある冷たい石のベンチに座り、勢いよく降る雨を眺めて時間をつぶしたあと、すぐそばの軍団橋を渡っていると、大量のカモメが大きな群れをなして飛んでくるのが見えた。黒く曇った空を覆うほどたくさん白い鳥型の穴があく。なにごとかと思って飛んできた方向に目をやると、川下のイラーセク橋あたりから小粒の花火が打ち上げられていることに気がついた。花火の発射音に驚いた彼らは、川上のカレル橋方面へちいさな大移動をはじめたのだ。カモメだけでなく、カラスや鳩も群れに交わる。橋から橋へ。人間ならさぞ迷惑がるだろうが、変化に柔軟な彼らは面倒な素ぶりひとつ見せず、颯爽と夜の風を切っていった。

 Lは遅刻に飽きたらず道に迷ったようで、ぼくはさらに30分ほど待たされた。その間、犬のフンを踏む、携帯のクレジットが切れるなどのハプニングのお陰で退屈こそしなかったが、1時間遅れで向かったJazz Dockでのコンサートはよくあるポップ音楽でぜんぜんJazzではなかった。まったくついてない。ぼくらは仕方なく近くのホスポダへ行き、だらだらと色々なことを話した。両親について、プラハについて、メランコリーについて。1月しなければいけないことについて、今までにした一番バカなことについて、こっぴどい失恋について。ちなみに彼女はこっぴどい失恋のあと、クンデラをたくさん読んだらしい。あまりオススメはしないが、ぼくも読んだ。というか(忘れかけていたが)、Lの父親は元クンデラの教え子で、3ヶ月前、彼女とはじめて会ったときもその話をしたのだった。世の中、じつはクレイジーなことだらけなのである。


 いつからかぼくは偶然に身を任せることが半ばじぶんのスタイルになってしまっていて、そのためにちょっとやそっとの偶然では驚かなくなった。それこそ小説の読みすぎかもしれないが、「あ〜、まぁそんなこともあるよね」という感じで、自然に受け入れてしまうようになった。でも、ほんとうの偶然はやはり人をまごつかせるものだと思う。とくにそれが意味をもちはじめ、なにか別のものへと姿を変えつつある場合には。



(写真はCeletná通りからの旧市街広場。もうクリスマスですね。Veselé Vánoce!)

2014年12月10日水曜日

チェコの裏切り者の研究者


 「なんでクンデラを選んだの?」


 おなじ質問を何回されたかわからない。まがりなりにも文学を研究している人間、とくに1人の作家、それもまだ評価が完全に定まってはいない現代の、というか現役の作家を研究している人間にとって、この質問はいわばサダメのようなものである。フロベールやセルバンテスやドストエフスキーを研究するのに、表立った理由はいらない。

 
 「彼の作品が好きだからです。」

 これが一番シンプルな答えだ。でもそれだけじゃ相手は納得してくれないから、仕方なくもごもごとなにか喋ることになる。この「もごもご」が論文になったり本になったりするのだが、実はこの国でミラン・クンデラについてもごもごするのはことさら厄介だ。


 先週末はチェコ第2の都市ブルノに行った。日曜日にチェコ人むけの日本語検定試験があるので、その試験監督のアルバイトがてら街を観光してしまおうというわけだ。

 土曜の朝6時に起き、カシウスと「別れのポメッロ」(ポメッロとはスペイン語でグレープフルーツのこと。日本のものより大きくて美味しい)を食べ、トラムの駅へ走る。プラハ中央駅から電車で2時間半。車内では翌々日のプレゼンに備えて『存在の耐えられない軽さ』を急いで読みかえした。現地はあいにくの雨だったが、感じのよいホステルに泊まれ(Hostel Fléda)、すばらしいレストランに当たり(Hostinec U Semináru)、海外で日本語の試験を監督するという得がたい経験ができた(試験内容はかなりむずかしかった。留学仲間のKHさんが言うように、たしかに「日本人でも空気の読めない人は正解できない」だろう)。
 だが、まさかブルノでこのサダメられた質問にでくわすことになるとは思っていなかった。皮肉にも、クンデラの生まれ故郷であるブルノで。

 「なんでクンデラを選んだの?」


 午後5時半ごろ、ちょうどメインステーションでプラハ行きの電車を待っているときだった。試験を受けたチェコ人の学生や、おなじ監督業務にたずさわったチェコ在住の日本人がホームに集まっている。今回の相手はチェコで30年以上も暮らし、チェコ語の通訳などをしている男性。カレル大学を卒業した最初期の日本人の一人だという。ぼくは手袋をした手でダッフルボタンをいじくりながら答えた。


 「う〜ん、たまたま彼の小説を読んで好きになったっていうのが一番素直な理由ですかね。ぼくは大学でチェコ語専攻だったわけではないので、チェコから入ったんじゃないんですよ。」


 「そうか、今でもチェコの60年代を知ってる連中のなかには、『アイツは逃げたんだ』って言うやつもいるよ。」


 ぼくは苦笑いを浮かべ、黙ってうなずいた。これを境にクンデラの名前は会話から消えた。


 はっきりいって、ミラン・クンデラはチェコで嫌われている。しかも残念なことに、それには当然といっていい理由がある。フラバルら多くの同時代作家と違いフランスへ「逃げた」こと、秘密警察への密告疑惑があること、移住してしばらくしてフランス語で書き始めたこと、最近はじぶんが「フランスの作家」として認識されるべきだと発言しており、ついに自作品のチェコ語への翻訳を禁じはじめたということ、加えて極度のマスコミ嫌いなうえに、本人自身、かなり「むずかしい」性格の持ち主だということ。

 つまり、控えめにいっても、チェコ人にとってクンデラは「嫌う理由の宝庫」なのだ。チェコ人だけではない。チェコ通の外国人もたいていクンデラを嫌っている。一方クンデラにしても、彼らにたいして悪びれる様子は微塵もない。むしろそんな母国との関係を作品に生かしている。裏切り者としてのじぶんを強く意識している。

 裏切り。じっさい、クンデラにとって裏切りは重要な文学的テーマである。彼の裏切りへの過剰とも思える身ぶりには、どこか強く人を惹きつけるものがある。そこでは自己肯定と自己否定が一緒くたになっている。


 いずれにせよ、クンデラについてなにか書くのであれば、彼の裏切りに負けないように書かねばならない。この国にいると、そんな思いが日に日に強くなる。


 

 
(写真はブルノのカフェから見上げる聖ペテロ聖パウロ大聖堂。この聖堂、迫力がすごいんです。)

 

2014年11月30日日曜日

日本人にとって外国語とはなにか 〜わたしの言語図〜


 昨日、夢のなかではじめてチェコ語を話した。記念すべき日だ。

 ぼくは地元である神戸の田舎にいる。天気は晴れ。自宅から急勾配をくだって最寄りのバス停へむかう緑道を歩いていると、なぜか(むろん現実にはありそうもないが)観光客らしい大柄の白人男性4人組と出会う。彼らは道に迷っているようなのだが、どうやら英語をほとんど話せないらしい(これもあまりありそうにない)。"Where are you from?"がやっと通じたところで、彼らがポーランドの出身だということに気づく。そう知るがはやいが、ぼくは目を輝かせてチェコ語で話しだすのである。むろん流暢にしゃべれるはずはないのだが(そもそもぼくの今のチェコ語力では「流暢なチェコ語」を夢のなかで表現することすら困難である)、極東の島国でチェコ語が使える機会をみつけて嬉しくなり(ポーランド語とチェコ語はおなじ西スラヴ語群に属しており、お互いかなりの程度で意思疎通ができる)、片言のくせにとくに物怖じすることなくチェコ語をしゃべっていた。誇らしい気持ちで、ぼくは無事かれらを目的地に送りとどけることに成功する。

 ちぐはぐな夢である。舞台は日本。しかも神戸の田舎。言語はチェコ語。しかも相手はポーランド人。でもこのちぐはぐさが、現在のぼくの状況をうまく表現しているといえなくもない。

 授業ではチェコ文学を英語で読んでいる。クラスにチェコ人はひとりもおらず、代わりに英語のネイティヴが幅を利かせている。フランス語を勉強しているのに、フランス人とは英語で話す。でも部屋に帰ると偉そうにフランス語でチェコ出身の作家クンデラを読み、偉そうにイタリア語でプラハについて読み("Praha magica")、偉そうにスペイン人と英語でアメリカ人の悪口をいう。チェコ語を話そうとすると、いまだにイタリア語がしゃしゃりでる。

 はっきりいって、頭のなかはもうごっちゃごちゃである。

 しかも残念なことに、ぼくはいわいる「言語好き」ではない。世の中にはほぼあらゆる言語に、というか外国語そのものに汲めども尽きぬ興味があり、その習得に尋常でない熱意をもち、おかげでいくつもの言語をいとも短期間に習得できるというような人間がいる。残念ながら、間違いなくぼくはそういうタイプではない。外国語それじたいに関心をもったことはないし、言語学習がぼくにとって純粋な喜びであったことは一度もない。ぼくが積極的に「選んだ」といえる言語はイタリア語だけで、ほかは完全に、身も蓋もない言いかたをすれば、「なりゆき」である。
 なりゆき。もちろん悪い意味じゃない。むしろ「なりゆき」以上に自然な言語学習の流れはないとすら思う。だが同時に、日本人であるぼくがこのような「なりゆき」をもつこと自体、ひとつの奇跡といっていいぐらいだとも思う。なぜなら、ふつう日本人が外国語を勉強しようというとき、そこにはどんな「なりゆき」もないから。考えてみれば不思議なことだが、英語を勉強する「なりゆき」すら、ほとんど意識されていないはずだ。ある外国語を話すことがなぜある外国人にとって「当たり前」であったり「必要」であったりするのか、学校の先生はぜんぜん教えてくれない。 

 最後に、言語について大事なことをもうひとつ。こういう環境で暮らしていると、じぶんにとって母語がいかに大切なものかがよくわかる。日に1度は日本語を読まないと落ち着かないし、2・3日も日本語を話さないと、文字通りじぶんがじぶんでなくなってしまうような気がする。一昨日もそんな気分になって日本人の友人たちに救援をもとめた。喜ばしいことに、最近ぼくはチェコにあって完全にビール中毒なのだが、母語もお酒とおなじく禁断症状があるらしい。

 ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは、かつて「わたしの母国はポルトガル語である」と言った。もとはといえば大航海時代に根のある言い回しらしいが、ペソアの意図はその時代から遠いところにあるように思う。無限の海を越えていく広さとしての世界言語ではなく、むしろぎりぎりで大地にとどまる狭さとしての国語。
 日本語以外にぼくを日本を繋ぎとめているものなんて、じつはほとんどないんじゃないか。最近は、そんな気さえする。



(写真はレトナー公園。こちらはもうクリスマスのイルミネーションがはじまっています。)

2014年11月22日土曜日

アウシュヴィッツの肩すかし


 更新が滞ったのには理由がある。先週は15日から17日までポーランドを旅行していたので、その準備などもあって、記事を書く時間がなかったのだ。むこうではクラクフに2泊したのだが、旅の目的はもっぱらアウシュヴィッツだった。

 アウシュヴィッツ。世界中の人間が、ここで何が起きたか知っている。他の観光客の例に洩れず、ぼくもこの場所について何を知っていて、何を知らないのかを確かめるためにアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪れた。
 11月17日月曜日。とても寒い日だった(最高気温が4℃だったらしい)。雨にこそ降られなかったが、始終どんよりしたぶあつい雲のした、深い霧につつまれ凍えそうになりながら、午前11時から午後4時半まで、ほぼ休憩なしで歩きつづけた。この日の寒さと疲れこそが、日々ぼんやり暮らしているぼくとアウシュヴィッツを繋ぐ唯一のものであるように思えた。ぼくをこの地に呼びだした当のものが、ここにはないという気がした。

 だがじっさい、今よく考えてみても、アウシュヴィッツとぼくのあいだには何かしら縁があるはずなのだ。

 ひとつ前の文章でも触れたが、ぼくとイタリアを引きあわせた直接的なきっかけは、13歳のときに観たロベルト・ベニーニの映画『ライフ・イズ・ビューティフル』だった。これはビルケナウに強制収容されたイタリア系ユダヤ人の家族の物語。映画のなかば、収容所の現実の過酷さから息子ジョズエを守るため、陽気でおしゃべりな父グイドはある嘘をつく。ここで行われているのはとてつもなく大規模なゲームで、いい子にして、泣いたり、ママに会いたがったりしなければポイントがもらえる。ゲームだということは知らないフリをしなくちゃいけない。1000ポイントたまったら本物の戦車に乗って家に帰れるのだ、と。

 これに加えて、ぼくにチェコ留学という数奇な運命をもたらした(お馴染み)ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』。おもに1968年の「プラハの春」を背景に書かれたものだが、じつはこの本のなかにも、語り手「私」による強制収容所への言及がある。
 そう昔の話ではなく、私自身も信じられないという感覚をおぼえながらこんな事実に驚いた。ヒトラーに関するある本の頁をめくっていたとき、彼の数葉の写真をまえに私は感動していたのである、その写真が自分の幼年時代のことを思いださせてくれたのだ。私は戦時中に幼年時代を過ごし、家族の者たちが何人もナチスの強制収容所で死を迎えていた。だが、自分の人生の過ぎさった時間、もう二度ともどってこない時代を思いださせてくれたヒトラーの写真に比べれば、彼らの死などなにものだったろうか? 
(『存在の耐えられない軽さ』西永良成訳、河出書房、2008年) 
 この部分は語りの技法的にみてもおもしろいところだが、問題はやはり、「私」が言っていることの内容だ。じぶんの家族を強制収容所へ送り込み、彼らを殺した「張本人」であるヒトラーの写真をみて「感動」するということなど、あってよいのだろうか? 少なくとも、およそ世間一般のモラルに反していることは確かだ。しかし語り手「私」は、このヒトラーの写真に感謝すらしてしまう。「私」にとって子供時代の記憶はかけがえのないものであり、この写真がなければおそらく永遠に思いだすことのないものだった。そのかけがえのなさ−−つまりその重さ−−を前にすると、いわばすでに「歴史的事実」となった家族の死は後景にしりぞき、ぼやけて、軽いものとなってしまう。
 ここには強烈な価値観の反転がある。ほんらい誰かの死、あるいは過去の事実ほど「重い」ものはない。そういったものには変更が効かないので、ぼくたちはただそれを黙って受けいれるしかない。しかし上の語りで「私」は、重いはずの「死」や「歴史」より前に、現在という寄る辺ない時間に生きる個人が持つもののうちでも、ひときわ頼りない「記憶」を置くのである。

 クンデラの「私」はその挑発的な語り口からしておおくの読者の反発を誘発するのだろうが、じつは『ライフ・イズ・ビューティフル』も、一部の作家や批評家から痛烈な批判を受けている。アウシュヴィッツという筆舌に尽くしがたい歴史の現実を矮小化し、いわば「ポップ」にしていると。

 現代イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、『アウシュヴィッツの残りのもの』という(むずかしいが)すばらしい本のなかで、強制収容所からの生還者の「証言不可能性」について書いている。ごく簡単にいえば、アウシュヴィッツやビルケナウを生き延びた人間が経験したことがらはあまりにも「非現実的」なので、言葉にすることはできない(し、仮にできたとしても誰にも理解されないだろう)ということだ。
 たしかに世の中には、言語化されること、理解されることを拒む事実が存在する。でもだからこそ、言葉が必要なんじゃないだろうか。言葉にならないかもしれない、理解されないかもしれない。そこに言葉の可能性がある。そもそも言葉がないのであれば、そのすき間にある「言葉にならないもの」もないのだから。

 たぶんぼくは、クンデラやベニーニの「軽さの技法」に、ずっと惹かれつづけているのだろう。重いものを重いものとして示すこと、それはすごく大事なことだが、しかしそれだけじゃなにかが足りない。そういう「足りない感じ」を、アウシュヴィッツの博物館に感じてしまった。



(写真はビルケナウ。重いですね。軽くしきれませんでした。まだまだ力不足です。)

2014年11月9日日曜日

カシウス礼讃/文化について

 
 今日(8日)はとても良い日だ。
 とくに何があるわけでもない。ただ天気が良いのである。それだけのことで、こころが跳ねあがる。
 晴れの日のすくない土地に暮らしていると、ときどきこういうことがおきる。まだ冬は始まったばかりで、これからどんどん寒さが厳しくなっていくというのに、なんだかイースターを先どりした気分だ。
 どうしてもじかに陽の光を浴びたくなって、急いで部屋をでる。The Beach Boysの"Pet Sounds"を聴きながらトラムに駆け込んだ。
 寮からほど近いレトナー公園のベンチで本を読み、座り疲れたので街のカフェにでも移動しようかと思った矢先、財布を持ってくるのを忘れたことに気がついた。仕方なく寮にもどってきたのだが、それでも気分がよいのでこれを書いている。

 じぶんのマヌケ加減に呆れつつMalostransá駅でトラムを待っていると、カシウスがニコニコしながら35番のトラムから降りてきた。地図に載っていない番号のトラムだ。

 このブログに登場するのは2回目だが、カシウスはぼくのルームメイトである。カシウス・マヌエル・ペレーズ。スペイン人だが、きれい好きで、何かにつけてぼくよりもよっぽどキチンとしている。机のうえもいつも整理されていて、ぼくも幾度か彼の整頓術を盗もうとしたが、実りは少なかった。
 カシウスは数学を勉強している。それなのに(と言わざるを得ないのが哀しいが)、たくさん小説を読んでいる。音楽の趣味もいい(お気に入りはGorillazとGould。これだけでもう言うことなし)。絵画も好きで(ゴヤについて色々教わった)、今日もひとりでプラハ城近くの国立新美術館に行ってきたようだ。本業の数学もたいしたものらしく、何年か前にスペインの数学オリンピックで5位になった。

 ある日の午後、彼はちいさな花鉢を抱えて帰ってきた。ピンクのかわいい洋菊である。どうせ女の子にでもあげるのだろうと思ったら、なんとぼくらの部屋のために買ってきたのだという。枯れそうになった花をみて彼は哀しみ("Shit, I'm sad. It's dying")、元気になった花をみて嬉しそうに笑った("I'm proud of her. It survived.")。

 カシウスと話していると、世界が多様であることに気づく。というより、世界が一様ではないということに気づく。世界が一枚の絵だとすると、それはけっして一色で塗られていない。とはいえ、ボーダー柄に塗られているわけでも、世界地図のように国ごとに色分けされているわけでもない。あえていえばどの部分にも色の濃淡があって、マーブルのように溶けあっている。そんなイメージを与えてくれる。

 と、言葉にするのは簡単だが、この感じ、じつはなかなか掴むのが難しいんじゃないかと思う。ぼくも日本を離れるまでは世界について違うイメージをもっていた。
 そういえばカシウスにもこんなことを言われた。
 −−でもさテリー、お前、高校生とかそのくらいのとき、将来イタリア語とかチェコ語を勉強することになるなんて思ってなかっただろ?
 −−そうか、イタリアは『ライフ・イズ・ビューティフル』、チェコは『存在の耐えられない軽さ』がきっかけか。そんな風に留学先を決められたのは良いことだね。すごく文化的で。

 (小説や映画などの)「文化」的な理由で留学先をきめること。あるいは単純に、ある国へ憧れをもつこと。これは日本人にとってはわりと普通のことだ。でも、たしかどこかで内田樹も書いていたが、たとえばヨーロッパの人間にとってはすこし不思議なことであるらしい。なぜなら彼らにとって(少なくともヨーロッパ圏内の)文化はいつもより具体的なかたちで、わかりやすく言えば人間のかたちをして現れるので、ある国のイメージを「文化」で型どる必要がないから。逆にいえば、日本人は「文化」と呼ばれるものを通してしか海の外と繋がれない変わった国民だということだ。

 文化というとどこか深いものだと考えられがちだが、映画を観たり小説を読んだり音楽を聴いたりするだけで底がみえてしまうようなものが文化なら、それはつまらない、浅いものだと思う。カシウスと話していると、そんなことを考えさせられる。

 ただやはり、ステレオタイプとは言わないが、身体に刻みつけられた国民性のようなものはじつに存在する。夜おそく部屋のドアを開け、読書灯の明かりのなか女の子とイチャつくスペイン人を見るたび、そう確信してしまう。

 

   (写真は上述のレトナー公園。こんな天気が続いてくれればいいんですが……)

2014年11月3日月曜日

クトナー・ホラ:僧侶か鉱夫の街

 
 50メートル先がまったく見えないような深い霧が街を包んでいる。といっても、これはとくに珍しい光景ではない。プラハの午前はだいたいこんなものだ。午後1時から4時くらいまでの間、気が向けば太陽が顔をだす。昨日もそうだった。
 
 昨日(11月1日)はLに誘われ、クトナー・ホラという街に行った。10時にHlavní nádrazí(メイン・ステーション)に集合。L以外だれが来るのかも知らない。どこに、誰と行くのかすらわかっていなくても、誘われたらなるべくホイホイ着いていくこと。ほんらい出不精なぼくが海外で交友関係を築くうえで自らに定めたルールである。
 Lは10分ほど遅れて知らない女の子とともにやってきた。プラハに滞在中の幼馴染みだという。Cも来るはずなのだが、トラムが渋滞に巻き込まれていているらしい。すでに乗るべき列車はホームに着いている。発車のベルが鳴るなか、ギリギリでCが到着。顔にはまったく血の気がない。よっぽど焦っていたのか、と思ったら、よく見るとゾンビのメイクであった。前日はハロウィーンだったのだ。メイクを落とす時間もなかったらしい。

 クトナー・ホラは銀の発掘で大きくなった街である。13世紀後半に銀鉱脈が発見されて以来、良質なグロシュ通貨(ボヘミア王国の通貨)の製造を担い、16世紀まではプラハに次ぐ繁栄を謳歌した。1726年に造幣局は閉鎖されたが、現在は旧市街とそれに隣接するセドレツ地区が世界遺産に登録されている。
 この街は他のヨーロッパの街とおなじく、ペストによっておおくの死者を抱えこんだ。さらに三十年戦争で甚大な被害を被ることになる。そのときに生まれた何万人もの死者が、セレドツ地区の有名な墓地教会に眠っている。13世紀後半、セレドツの修道院長が、エルサレムにある聖墓からひとにぎりの土を持って帰り、この地にまいた。それ以来この教会は聖地とみなされ、埋葬を望むもの者たちの遺体が中央ヨーロッパ中から集まったらしい。この教会の納骨礼拝堂をみるのが今回の旅の主要な目的のひとつだった。

 墓地教会をことさら有名にしたのはその内装である。教会内部はなんと4万人もの僧侶の骨で飾り立てられている。シャンデリアからレース(?)から、装飾といえるものはほとんど人骨でできている。そのため見た目は礼拝堂というより洞窟といった雰囲気。
 しかし、正直にいって、ここは少し期待外れだった。観光客が多かったこともあるだろうが、陳腐な感じすらした。教会全体が「アート」になってしまっている。Memento mori? ほんとうに人の死を想わせたいのであれば、「アート」になりきらないものこそ示さなければならないだろう。プラハのシナゴーグも、プノンペンのキリング・フィールドも、まったく「アート」ではなった。そこには見るものと見られるものとの間に強烈な断絶があった。

 一番楽しみにしていた墓地教会に出鼻をくじかれ、肩をすくめながら低めのテンションで旧市街へと向かう一行。それにしても、なんだか人が少ない。店もほとんど開いていない。なぜだろう。考えてみると、今日はまだ日本でいう「お盆」週間で、多くのチェコ人は家族で親類の墓参りにいっていることに思いあたる。Putain! 耳馴れたフランス語のスラングが聞こえる。ガイドブックに載っているような店ですら堅く門を閉ざしていたので、しかたなくテキトーにはいったレストランで昼食をとり、聖バルボラ教会へ。

 この教会がすばらしかった。ぼくがチェコで見たなかでは今のところ一番好きな教会だ。アーチ型のフライング・バットレス(飛梁)が目を引く、均整のとれたとても美しい建物で、シンプルなベージュ色の外壁もよく街に溶けこんでいる。見ていてとても気持ちがいい。
 聖バルボラとは鉱山労働者の守護聖人であって、この教会はじつに彼らのために建てられたものである。建築資金についても、そのほとんどがカトリック教会からではなく市民によって調達された。教会内にはランタンを掲げた鉱夫の像や、貨幣を鋳造する職人たちを描くフラスコ画も見られる。Lはすこし照れながらお土産コーナーでポストカードを買っていた。

 鉱山労働。どうやらこれはチェコという国と深い関係がありそうだ。日本にも戦前は多くの鉱山があったというが、そこで働く人々がここでほど讃えられたことはおそらくなかっただろうし、日本の鉱山労働にはとにかく暗いイメージがつきまとう。しかしチェコ人のことを考えると──それこそ社会主義時代など、もちろん悲惨だったには違いないのだろうが──どうしても仕事のあとの美味しいビールが目に浮かぶ。地元のホスポダ(居酒屋)で、ドロドロになった男たちが、皮肉を言いながらも、がやがやとビールを飲んでいる姿が。

 ところで、この街の名前 Kutná horaの由来にはふたつの説があるとされている。Horaは山という意味なので、問題はKutnáのほう。ひとつはその起源を「僧帽 Kutten」にあるとし、ひとつは「採掘 Kutání」にあるとする。どちらが正しいのか、日帰り観光客の日本人にだってわかる。




(写真はヴルフリツェ川の岸辺から仰ぎ見た聖バルボラ教会。きれいなシルエットですよね。)

 

2014年10月29日水曜日

墓地と歴史


 今日(10月28日)はチェコスロヴァキア独立記念日だ。プラハ城をはじめ、多くの観光施設、公共施設は閉まっており、街全体にどこかひっそりした空気が漂う。大学もお休み。ぼくも昼過ぎくらいまでは部屋でひっそりしていたが、夕方頃、チェコ人H先生の勧めを思いだし、寮からすぐ近くにある墓地 Břevnovský hřbitovへ行ってみることにした。
 墓地は修道院の敷地のなかにあり、いくつかの庭園に囲まれている。この庭園はぼくのお気に入りである。無造作なようでもあり、手入れが行き届いているようでもある開けた空間を、いつも静かな緑が覆っている。ここに来る人たちは、その静けさに配慮するように、すこし小声で話す。
 残念ながら入り口が見つからず墓地へは入れなかったのだが、鍵のかかった門を通して、あるいは林のなか、あるいは小高い丘のうえから、なかの様子を伺うことができた。灰色の墓石を背景に色とりどりの花が飾られ、それを普段は見られない赤色の光が照らす。このキャンドルの灯火が夜どおし先祖の霊を祀るのである。チェコスロヴァキアの独立記念日は日本でいうお盆の役割も果たしているようだ。
 
 この国に来て1ヶ月半になるが、チェコ語の能力不足のせいで、残念ながらまだあまりチェコ人と話す機会をもてていない。それでも何人かの(英語が話せる)チェコ人は、ぼくがチェコ語とチェコ文学を勉強しに来たというと、驚いたような嬉しいような顔をして、時にいろいろ話を聞かせてくれる。
 ブルノのフランス語高校を卒業してカレル大に来たチェコ人Kの祖父は、共産主義の時代を生き、秘密警察に捕まって、鉱山で死んだ。警察に捕まる前は有能な精神科医だったのだが、鉱山ではだれもそのことを知らなかったという。あるいはKが受講している講義の教授。彼も警察によって大学での職を追われ、掃除夫などをしながらのちに主著となる大著を書き上げた。大学でも伝説的な人物で、現在なんと80歳で教鞭をとっている。

 この話を聞いたとき、ぼくらはプラハの旧市街にある、Kの言う「典型的なチェコのホスポダ(居酒屋)」にいた。 店の内壁には有名なチェコ映画のワンシーンを切りとった写真がところ狭しと飾られている。
 こういう店がおれは一番好きなんだ、さっきみたいに音楽がうるさいバーじゃなくてさ。深夜2時をまわっていたのにも関わらず、Kはビール片手にとても熱心に話した。

「プラハには『知識人の橋』と呼ばれている橋があるんだ。共産主義に抵抗した知識人たちがそこでよく集会をしていたらしい。今ではもうそれがどの橋のことなのかわからないんだけどね。でもおれはじぶんの国の知識人が命がけで戦ったことを誇りに思うよ。」

 考えてみれば当たり前だが、まさかこんな話――それこそクンデラの小説にたくさん出てくるような話――を年下の友人から聞くことになるとは思っていなかった。この国に生きる人間には、たとえそれが20歳の若い学生でも、共産主義時代の暗い歴史がまだナマのものとして身体に染みついているようだ。

 1977年、チェコを代表する哲学者であるヤン・パトチカは、のちに大統領となる作家ヴァーツラフ・ハヴェルらとともに「憲章77」という反体制運動の発起人となる。そのために逮捕され、当局の取り調べ中に心臓発作で死んだ。彼もいまはこのBřevnovský hřbitovで眠っている。今日ぼくが見かけた人のうちにも、パトチカやKの祖父のように、時代と戦って死んだ親類の墓参りに来た人がいたかもしれない。



(写真はプラハ城からの夜景。こちらはもう完全に冬です。寒い。)

2014年10月24日金曜日

カレルの沸点、あるいはヨーロッパの亡霊


 6日前(18日)のこと。

 この日、ぼくはこちらに来てはじめてプラハを離れ、カルロヴィ・ヴァリという街へ日帰り旅行へでかけた。午前6時に起き、8時半Florenc駅発のバスに乗る。朝が苦手なぼくにとっては、この時点で大きな冒険であった。同行する予定だったスペイン人Mは、チケットを予約していたのにもかかわらず寝坊のため早々とギブ・アップ。あまりにもスペイン人的すぎる。一同"He's like a baby"ということで合意。結局バスには、ぼくと、フランス人Ch、同じくフランス人L、Lに会いに来たパートナーのパリジャンA、そしてイギリス人Nが乗りこんだ。Student Agencyという会社の、安価で、とても快適なバスだった。なんと飛行機の客席のように、映画やドラマが観れるモニターがついている。ドリンクのサービスもある。

 11時頃、カルロヴィ・ヴァリに到着。ここはボヘミア西部にある世界的に有名な温泉地である。ゲーテやショパンもこの街を訪れたという。ミラン・クンデラの小説『別れのワルツ』の舞台である温泉街も、おそらくここがモデル(のひとつ)だろう。

 この街の名前、カルロヴィ・ヴァリには、おもしろい由来がある。伝説によると、ある日、神聖ローマ皇帝カール4世/ボヘミア王カレル1世は、この地にシカ狩りに出かけた。大きな森のなかで王は1匹のシカを見つける。狙いをつけられたシカはジリジリと崖のほうへ追いつめられる。 王の気迫に圧倒されたこの哀れな動物は、険しい崖から飛び降りることを余儀なくされる。必死でピョンピョン逃げていくシカ。すると、シカが最後に飛び跳ねたところから、なんと大量の温泉が噴き出したではないか。この光景を目の当たりにした王はこの土地の豊かさを確信し、ここに街を築くことにした。それがKarlovy Vary. つまり、「カレルの沸点」。「温泉」ではない。そこがなんとなくチェコ的だなと感じる。

 さて、何ごともなく目的地にたどり着いたにみえたわれわれだが、じつは誰もこの街についてまともにリサーチしてなかったことが発覚。地図ひとつない。日本だと一悶着ありそうな状況だが、皆ほとんど気にしない。そのままあてもなく街をほっつき歩く観光客5人組。と、ここで救世主よろしくドイツ人Adが合流。ぼくたちと同じバスのチケットがとれず、一足先に現地に到着していたのである。2時間も早めに来ていただけあって、彼女はすでにこの街の土地勘がある。
 Adの案内に従って、あたりの森を散策する。紅葉がとても美しい。この街に限らず、チェコの人間は自然の楽しみ方をよく知っている。そのことがよくわかる街の作り。右手には森、左手には湖、そのあいだを小さな緑道が走る。湖には立派なしだれ柳。パリジャンAがしだれ柳を指しながらイギリス人Nに、あれは英語で何ていうの? と訊く。フランス語では Le saule pleureur(泣き柳)というんだ。ほらあの木、葉っぱの一枚一枚が涙みたいに見えるでしょ?

 眺望のよい一風変わったホテルのちかくで、一時休憩。
 この街と、チェコの建物についてChと話す。フランス、とくにパリの建物の装飾は極めてシンプルで、外壁はほとんど白だという。イタリアも外観は比較的シンプルだが、色使いは極めて鮮やか。暖色系。パリのことはわからないが、ヴェネツィアの建物はかならず陽の光を必要とする。だから 冬は耐えきれないくらい淋しい。一方チェコは、すべての建物が、砂糖菓子のようにすこしクリームがかった色で柔らかく彩られている。太陽光にあまり影響されない色である。明暗の差をできるだけ見えにくいものにする――シュガーコーティングする――ことが、長く厳しい冬を乗り越える工夫のひとつなのだろう。
 
 こうやっていろいろと話をしているなかで、ぼくはまた失態を犯してしまった。やはり口は災いのもと。なぜかミドル・ネームの話になったときである。
 当然(というわけでもないのだろうが )、ぼく以外はみんなミドル・ネームをもっていた。イギリス人のミドルネームはいかにもイギリス的に、フランス人のミドルネームはいかにもフランス的に響く。ここでぼくは、ちょっとした出来心とサービス精神から、やめとけきゃいいのに、「おれだってミドルネームあるぜ!」と言ってしまったのである。驚いた顔でぼくをみる友人たち。ほとんど反射的な発言だったので、こちらはなにも準備していない。次いで口からでたのは「…ニンジャっていうんだ!」という言葉(ああ文字に起こすのも恥ずかしい)。
 コンマ数秒、宙をただよう我がニンジャ。もちろんぼくはウケを狙って言ったのだが、予想していなかったことが起きた。他の人間は笑っていたが(むろん爆笑ではない)、Chはぼくのジョークを完全に真に受けてしまったのである。
 
 「ほんと!? それってすごいね!!! ニンジャー!」

 彼女の名誉のために言っておくが、Chはとても賢い女性である。ぼくの知るなかではフランス随一の大学から留学している。しかしこの時、ぼくは一時的なショック状態にあり、彼女の突然の歓喜にまったく反応できなかった。というのは、

 A. Chはとても賢い女性である。
 B. Chはニンジャが大好きだ。

 というふたつの文章は、ぼくのなかで完全に矛盾するからである。なぜなら文化というものには層があ(るとされてお)り、現代を生きる多くの日本人にとってニンジャとかサムライは、それ自体では「サブカルチャー」の層にすら達しない、おそらくそれよりも下位の、時代劇か子供向けの戦隊モノにしか登場しない、現実に存在しない亡霊のようなものだからである。そんなバカバカしいものに知的な女性が熱狂していてよいものか!

 「ヨーロッパに亡霊がでる――クール・ジャパンという亡霊が……」
 
 しかし、ぼくのなんちゃってミドルネームにたいするChの率直な感動ぶりと、「ゴメン、さっきのはジョークだったんだよ」というぼくの言葉を聞いた彼女の落胆ぶり(と、"Hey, that's so mean!"というLの怖い顔)を見ていると、どうしても悪いのはぼくのように思えてきた。
 というか、たぶんほんとうに悪いのはぼくのほうだったのだ。ぼくはもっと自国の文化の扱いに注意深くあらねばならなかったのである。なぜならば、端的にいって、いまや日本の文化は日本人だけのものではないから。この時代にあって、世界の国々にはそれぞれ「小さな日本文化」とでもいうべきものがある。 アメリカにはアメリカの日本文化、チェコにはチェコの日本文化、フランスにはフランスの日本文化。そしておそらくぼくらには、ただ日本人であるというだけの理由でそれらの「小さな日本文化」に口出しする権利はない。

 日本人からするとただのステレオタイプとしか思えないものが、たとえば西洋の文化大国から来た人間に、思いもよらないほど深く食い込んでいるということがある。日本人にとってはペラペラのうすっぺらいものが、外国では豊かな厚みを持っているということだってある。そういう可能性を、否定してはいけないと思った。

 そういう可能性に引っぱられて、ぼくだってここまで来たんだし。



(写真はKarlovy Vary. ほんとうに洋菓子のような、可愛らしい街でした。)

2014年10月18日土曜日

外国で話すこと/外国で書くこと

 
 ぼくは話すことをどこか諦めてしまっているフシがある。

 話すことを諦めていることとはどういうことかというと、いきなり反語的な言いまわしで申しわけないが、なんでもある程度テキトーに話せる、ということである。ほんとうに話すべき内容を口に出さず、テキトーにカワセるということである。

 ぼくは昔から滑舌が悪く、子供のころはじぶんの名前すらちゃんと発音できなかった。スーパーマーケットなどでふらふらしすぎてよく迷子になってはサービスカウンターのお姉さん(あるいはおばさん)のところへ行き、妙に生き生きと迷子宣言をするのがぼくの小さいころの習慣だったのだが、そのときもじぶんの名前を正確にお姉さん(あるいはおばさん)に伝えるのにずいぶん苦労した憶えがある。
 加えて根がシャイなので、あまり長い間じぶんの下手くそな話に人の注目を集めたくない、という気持ちがどこかにある。だからぼくの発話スタイルはどんどんストーリーテラー/噺家型から遠ざかっていき、それとは逆の方向――強いていえばコメンテーター/野次型の方向――へ発達していった。

 もちろんこれは日本語をつかって日本人とコミュニケートする場合である。こちらでは、限られた語学力のために、日本語でやっているような高度な「カワシ技」は使えない。それにこちらの人間はあまりカワサれるのが好きではない。彼らの会話は(日本人のそれと比べると)基本的に直球であり、直球であるということは小細工が効かないということである。だからこちらもイヤでも正面きって話さなければならない。
 さらに彼らはそもそも「話すこと」そのものを、 非常に重くみている。これはこちらの人間の語学に対する取り組み方と日本人のそれを比べてみれば一目瞭然だ。
 たとえば英語だと、ふつう「あなたは英語ができますか?」と訊くときは、"Do you speak English?"という。誰もぼくが英語を読めるか、または書けるかを訊いてはくれない。ぼくはミラン・クンデラというチェコ語・フランス語のバイリンガル作家を研究しているので、そのことを話すと、フランス人の友人などはよく"So, you can speak French!"と言う。それに"No, I just can read it."と応えると、少し不思議な顔をされる。彼らにとって言語とは第一に「話すもの」、より適切に言えばオーラル・コミュニケーションのためのものだからである(だからたとえば哲学者ジャック・デリダはこのような西洋の音声中心主義を批判した)。逆にいえば、話せないと言語が出来ることにならない、ということだ。クンデラをフランス語で読めるのにフランス語がしゃべれないなんて変、なのである。そういえば数日前もスペイン人ルームメイトのカシウスに、決め台詞的に"Language is to be spoken."と言われて苦笑した。

 でもカシウス、そしたら書き言葉はどうなるの? きみの読んでるそのジョイスの短篇はどうなるの?  ぼくの書いているこの文章はどうなるの?

 当たり前のことだが、話し言葉には話し言葉の良さが、書き言葉には書き言葉の良さがある。外国で生活していると日本では気づかなかった話し言葉の良さにも気づくことができる。日本語ではとてもいえないことが平気でいえることだってある。
 それでもやはり、ぼくにとって言葉は第一に書かれるものである。"Language is to be written."
 話し言葉には迷いがない。それは一直線に、疑いなく受け手のほうへと飛んでいく。書き言葉にはいつだって迷いがある。読み手はそこにいない。そもそも読み手がいるのかどうかすらわからない。どんなふうに言葉が流れていくのか、読み手がどんな顔をしてそれを受けとるのか、書き手はいわば頭のなかで想像するしかない。
 
 今、ぼくは中心街からすこし離れた大学のキャンパスの、じぶん1人しかいないガラガラの教室でこれを書いている。大きな灰色のヒラメのような雲がちょうど窓の対角線上を泳いでいる。雲のしたにはなだらかな丘。そしていくつかの素朴な人家。右端にはプラハの町並みがチラっと見える。
 外国で、家の外で、何かを書くのはとても気分がいい。言葉が自然にでてくる気がする。この街には、数人の日本人をのぞくと、ぼくの書く文章の潜在的読者はいない。そのことが言葉をより素直なものにしてくれる。



(写真はペトシーンの丘にある偽エッフェル塔からの眺望。最近やっと生活が落ち着いてきた気がします。)


 

2014年10月12日日曜日

10.10 わたしのトラブル


  昨日(10月10日)は、プラハに来てから最も長く、タフな一日だった。

 まずこの日、ぼくはチェコの税関で止められていた荷物を取り返しに行かなければならなかった。荷物のことを知らせる手紙を読んだのが7日の火曜日( じつは20日前に寮に届いていたのだが、寮からの説明が不十分だったために受け取りが遅れた)。そこにはよく見ると内容をおおまかに英訳したサイトのリンクが小さく書いてあったが、手紙自体はすべてチェコ語。おそらくかなり重要な知らせが、じぶんにはほとんどわからない言語で書いてある。この時点でこちらのストレスはかなりのものである。チェコが嫌いになってもおかしくない。
 しかもその手紙には、荷物を送って欲しくば、その内容(具体的には研究に必要な本・厳しい冬を越すためのコート類・お気に入りのワックス・先生からもらったゴジラのフィギュア)が私有物であって商品ではないことの宣言と、服なら服、本なら本を購入したことを示す領収書の類いが必要だと書いてある。ここでぼくのストレスは許容量を完全に上回る。
 段ボールにつめこんだ全てのもののレシートなんて、あるハズがない。あったとしても、たまたま留学先にそんなレシートを持ってきているハズがない。万事休す。これが本場のカフカ的不条理か。荷物は最悪破毀される可能性がある。ぼくの絶望は相当なもので、この時チェコはぼくにとって完全に敵だった。

 しかし幸運にも、以前日本の大学でチェコ語を教えていたチェコ人のH先生の助けを得、どうやら住居の証明とパスポートのコピーなど簡単な書類をもって直接税関/郵便局に行けば荷物が返ってくるかもしれないことがわかった。ということで、ぼくは10日の朝、城へと向かう測量士Kさながら、巨大な官僚制との闘いを前に、士気を高めつつ、黙 々と準備をしていたのである。
 が、そこに災難が降りかかる。日頃から貴重品を入れている小さな箪笥の鍵が、ちょうど鍵穴に指しこんでガチャガチャしているときに、ねじれて折れてしまったのだ。当然鍵は閉ったまま。箪笥のなかには荷物を取り返すために必要な書類がまるまる入っている。明後日の方向をむいて数分間放心したあと、どうしようもないので寮のレセプションへ。 どうにかカタコト(以下)のチェコ語で状況を説明すると、すぐに鍵屋を呼んでくれた。意外にもこの鍵屋はすごかった。電話してものの数分でぼくの部屋に到着、鉄製の大きな釘抜きのような工具で箪笥を破壊しつつも鍵穴をまるごと取り出した。驚くべき速さで仕事を終え、爽やかに帰っていった。

 朝は大幅に遅れることを予想していたが、 我が寮特有の(?)局所的迅速さのおかげで、ほぼ予定どおりに郵便局/税関に辿りつくことができた。正午。こころの準備はできている。H先生からのアドバイスを思い起こす。「絶対にチェコ語は喋るな。英語で押し通せ」。
 アドバイスに従ってはみたものの、職員のほうはこちらの予想よりも英語ができず、そのためか郵便局と税関を3回ほど往復させらたが、とにかく手続きは1時間ほどで完了、無事に荷物を引き取ることに成功した。誇らしい気持ちで段ボールを抱え、トラムを乗り継いで寮へ帰る。ほっと一息、つく間もなく、シャワーを浴び、寮の地下二階、パーティールームへ向かう。午後4時。日本人の留学仲間たちと韓国人Oとで「手作り餃子パーティー」を開くのである。
 チェコで餃子をつくる。なかなかおもしろい経験だった。ヨーロッパで韓国人や中国人と一緒にいると、やはり大きな文化的基盤の存在を感じる。料理などしていると特にそうである。わざわざ喋らなくても自然と「阿吽の呼吸」のようなものが生まれる。ここにぼくの知る限りトラブルはなく、アジア的和やかさのなかで美味しい餃子を食べることができた。

 さて、午後8時、餃子パーティーを早々に抜け出し、次なる現場へ向かう。スペイン人Mのフラットでの夕食に招かれたのである。夕食! スペイン人の夕食は遅い。10時過ぎることも稀ではないとか。すでに餃子で一杯の腹を抱えてPankrácというメトロの駅へ。駅につくと、そこにはフランス人Ch、H、L、そしてスペイン人Mの姿が。ぼく意外みなラテン系である。餃子パーティとのギャップは大きい。
 近くの大型ショッピングモールで買いものを終え、フラットへ。みんなでTortilla de patatas(スペイン風オムレツ)をつくる。ぼくにとっては本日二回目の料理/夕食。こちらも大変美味であった。調子に乗って食べ過ぎる。フランス人C、アルゼンチン人Mが合流。食事のあと、なぜか母語で有名な歌をそれぞれ歌おうという流れになり、それぞれ「見上げてごらん夜の星を」、"Volare"、"Non, Je ne regrette rian"を歌い、お次はDrinking gameをすることに。このゲームで惨敗したぼくは大量のラムを飲むハメになった。
 
 どうやらぼくは吐きやすい体質のようで、酒に酔っていなくても、たとえば食べ放題やビュッフェなどに行くとつい食べ過ぎて吐いてしまう。なにか胃にいれてから吐き気を催すまでのタイム・ラグが大きいというか。吐き気の反応が鈍いというか。消化器の蠕動が激しすぎるのか。中高生のときに焼き肉食べ放題に行ったあとに吐いてしまい、友人たちに笑われてたのをよく憶えている。
 とにかく、昨日のぼくはバカだった。ビール、餃子、ビール、ワイン、パン、チーズ、ワイン、オムレツ、ラム、ラム、ラム。食べ過ぎ×飲み過ぎ。税関での勝利に浮かれていたのかもしれない。やはり最後のラムが効いていたらしく、フラットから次の目的地を目指してダウンタウンへトラムで移動しているときに急に吐気をもよおし、途中下車して嘔吐。そんなぼくを見かねたChが、親切にも、じぶんの部屋に空きベッドがあるからよかったら泊まっていってもいいと言ってくれる。じっさい1人で寮まで帰る気力もなく、恥を忍んで厚意に甘えることに。ここで皆と別れ、Chの部屋へ。トラムで3駅のところだったが、部屋の最寄り駅で堪えきれずまた嘔吐。あやうくトラムに吐瀉物をまき散らすところだった。

 旅の恥はかき捨てというが、留学の恥はそう簡単にかき捨てられるものではない。土地が忘れても、人が憶えている。
 ぼくの好きな画家フランシス・ベーコンは、「じぶんの絵は、ナメクジのように人間存在の跡を残しながら人間が通ったことが感じられ、ナメクジが粘液を残すように過去の出来事の記憶の跡をとどめるものであってほしい」と言っている。とはいえ、さすがにぼくのゲロとベーコンのナメクジとでは対比にもならない。



(写真は上述のゴジラ。今回は、 長くて汚い話ですいません。)

2014年10月4日土曜日

風邪気味、メランコリー、留学

 
 今日は風邪気味なので部屋で安静にしていることに決めた。季節の変り目だということもあるだろうが、年甲斐もなく毎晩よる遅くまで飲み歩きすぎたのかもしれない。

 そもそもぼくはあまり頻繁に夜遊びできるタイプの人間ではない。とくに夜が明けるまでパーティーなどがあった日の翌日は、何もしたくなくなる。人は皆だいたいそうなのかもしれないが、ぼくの場合は極端で、ほんとうに何もしたくなくなるのである。ほとんどオブセッションといっていい。体の奥のほうがなにかとても柔らかくて繊細な生きものにでもなってしまったかのように、外気に触れたくない、外に出さないでくれと囁くのである。そんな内からの声を何日も無視すると、今日みたいなことになる。

 この週末、何人かの愛すべき友人たちはミュンヘンにいてプラハにいない。エラスムスの学生のための大きなバスに乗って、有名なオクトーバーフェストを見にいった。じつはぼくも行く予定だったのだが、止めることにした。ヴェネツィア留学の際にできた親しい友人Mが、たまたま妹の引っ越しの手伝いのためミュンヘンを離れているらしいからだ。完全に行き違いである。ミュンヘンに行くんだったら、Mに会いたい。Mのいないミュンヘンには、ほとんど行く価値がない。ヨーロッパのいくつかの街は、すでにぼくにとってはそのようなものになっている。
 
 日本をはなれて三週間弱。プラハももう身体に馴染みはじめている。それと同時に、チェコ語も耳に馴れはじめた気がする。文法的には恐ろしく複雑な言語だが、音としてはほかのどんな言語とも等価である。頭はついて行かなくとも、自然と身体は覚えていく。人間の、というより動物の、適応能力とは、ほんとうに凄まじいものだ。

 ヴルダヴァ川を見ると、すでに郷愁に似たものを感じてしまう。一週間ほどまえ、フランス人主催のフラット・パーティーで、同じ学部のアルゼンチン人がプラハをメランコリックな街だと言っていたが、ぼくもそれに深く同意する。メランコリーと郷愁は、なぜかぼくのなかで強く結びつく。
 メランコリーは古代ギリシャ時代から大きな罪とみなされ、長い間その病因は身体のなかの「黒い胆汁」だと思われてきた。人を憂鬱にさせ、やる気をなくさせ、愚かしい行動をさせるもの、そのような気分障害のほとんどが、メランコリーによるものだとさえされていた。たぶん、メランコリーのもつこのような停滞の感じが、郷愁の感覚と繋がるのである。それは未来へと人の背中を押してくれるようなものではない。かといって、人を過去に縛りつけるだけのものでもないだろう。

 留学とはたいがいそういうものである。と、ぼくは思う。着いたときには、もう去るときのことを考えている。あるいは「なにを見てもなにかを憶いだす」。だから留学の地は、つねに過去と未来が行き交う交差点のような場所になる。その点は、現在とも少しちがう。過去と未来のあいだで漂う、ふわふわした中空地帯である。



(写真はプラハ城近くのHradčanské náměstí. 今回はすこし文体が堅めですね。まだまだ試行錯誤中ですが、とうぶんこの感じで書くと思います。)

2014年9月30日火曜日

まわりの人たちについて

 
 みなさまどうもDobrý den(こんにちは)!

 今日はぼくの身のまわりの人たちについて書こうと思います。

 ぼくの通っている大学(院)の学部はFaculta humanitních studií(人文学部)といって、カレル大学のなかでは1番新しい学部です。ぼくはその名前とこの学部の売りのひとつ、Central European Studiesというものに惹かれたんですが、フタを開けてみれば、いわゆる流行の「国際系」学部だったみたいです(まだ総体としては掴みきれていません)。ぼくは学部も国際系だったので、「国際系はもう充分」と思っていたのですが、どうやらぼくは国際系から逃れられない運命のようです。
 ともかく、そういうことなので、この学部にはたくさんの留学生がいます。1番多いのはフランス人、つぎがドイツ人、あとはその他諸々ヨーロッパの人々、というところでしょうか。1学年60人ほどですが、アジア人はぼくを含めて2人、偶然にも2人とも日本人です。似たような状況にいたことがある人ならよく分かるかもしれませんが、こういう場合、日本人であるというだけでなかなかおもしろい経験をすることになります。
 ぼくがヴェネツィアに留学していた5年前はここまでではなかったと記憶してますが、端的にいって、彼ら西洋人の日本文化にたいする関心は非常に高いです。高すぎて引くくらいです、じっさい。個人的な観測だと、日本文化に興味があって、嬉々としてぼくらに話しかけてくる人のうち75%以上は日本のアニメが大好きです。ジブリ作品はもちろん、世界のクロサワ、はては涼宮ハルヒなど、ふつうの日本人よりもはるかに日本の映像作品が好きです。ぼくはまだそっち系もある程度分かるのでワリと彼らに反応できますが、そうできない場合の彼らの落胆っぷりは見てて笑えます。
 とまぁここまではいいんです。こっちはなにもしなくても周りに外国人がよってきて、喋りかけてくれるわけですから。あるいはときどき「ニンジャー」とか「ゴジラー」とかやって笑いをとればいい。ただ問題は、たとえ彼らの関心に応えられるとしても、このままではぼくらはなかなか彼らと仲良くなりづらいということですかね。仲良くなりづらいというか、うまく関係を進めることができないというか。彼らが興味があるのはそのままでは括弧つきの「日本人」であってぼくら個人ではない。やっぱりこれでは知的欲求を満たすだけの皮相的な「異文化コミュニケーション」しかできません。ほんとうに文化的といえるものは個人の底のほうにしかない。
 
 ということで、(長い前置きになりましたが)この投稿でも、国籍をいったんハズして、具体的なふたりの友人について書いてみようと思います。CとL。どちらも女性です。
 ぼくが彼女たちはじめてマトモに話したのはたしか23日。プラハで1番大きなRoxyというクラブで留学生むけの巨大なパーティーがあった日です。
 彼女たちはとにかくタバコをバカバカ吸うんです。それがなかなかサマになってるんですね。ぼくも喫煙者ではありますが、彼女たちとは比較にならない。まだ20歳かそこらでしょうけど。で、踊りまくるんです。しかもそれがふつうクラブで見られるようなフラフラ/クネクネ踊りではなく、ちゃんとしたパートナー・ダンスというやつですね。手を繋ぎながら高速で弧を描いてグルグルまわったり、なにやらカウボーイに見立てて輪投げのようなことをしたり、とにかくステップからなにからあまりにも完璧に、しかも女の子ふたりで踊るんで、まわりの人間は(ぼくを含め)口を開けてただ観てるしかない。そこには目に見えるくらい完全な調和が、他を寄せつけないものがあったわけです。
 でもそこにはやっぱり心ない邪魔が入るんですね。男です。しかも悪いことに、片方、よりダンスのうまい、より「女らしい」Lのほうにばかり男が寄ってくる。だからLはひっきりなしに誰か別の男の相手をしなけりゃならない。数多の男たちが崩れ落ちていくのをぼくと友人のM(男)は笑いながら見ていたんですが、Cは終止浮かない顔をしている。ぼくとかMがダンスの相手をしようと頑張るんですが、やっぱり全然ダメなんです。
 そうこうしているうちに時計の針は朝4時をまわる。クラブは終業、メトロもトラムも始発がでる時間です。みんなもうヘトヘト、眠たげにその場を去ろうとするわけですが、Cの姿が見当たらない。ぼくも早めに出たからわかったんですが、彼女はひと足先にクラブの外に出ていたんです。で、ぼくを見たCは言いました。
 「私はレズビアンで女の子が好きだけど、彼女は男の子が好きなの。これってすごく哀しい。」
ハッとして彼女の顔をよく見ると、目の下にはマスカラの落ちた跡がありました。


 と、こういう類いの経験は、日本ではなかなかできないものだと思います。ほんとうにどこか外国の映画を観ているようでした(最近観た『アデル、ブルーは熱い色』がフラッシュ・バックしました)。
 LがCのことをどのくらい知っているのか、ぼくはLにもCにも直接聞いてはいないですが(たぶん全部知っているでしょう)、彼女たちはいまもとても仲良くやっています。 




(写真は寮の部屋からの景色。気づけば前回から女の子のことしか書いてないですね。ぼくの底はこんなもんです。HAHAHAHAHA!! あるいは今度は性別をハズして書いてみるのもおもしろいかもしれません。)

 
 

2014年9月27日土曜日

ようやく初投稿!

 
 はじめまして。プラハに留学中の大学院生が書いております。

 ほんとうはプラハに着いたらいち早くブログかなにかを立ち上げてやろうと思っていたんですが、ネットが繋がらない、ブログというものがイマイチわからない、毎日なにやらウェルカム・パーティーがあってモノを書く時間も余裕もない、ということで、いつのまにかチェコ入国から12日も経ってしまいました(9月15日夜8時に到着)。

 12日。あっという間でしたが、中身はやはりそうとうに濃厚でした。それをひとつの記事にまとめるとなるとかなり大変なので、まぁのちのち触れることにして、今日はとにかく初投稿ということで、気楽にざっくりと書いていこうと思います。

 …やっぱり初めは自己紹介でしょうかね?

 ぼくはミラン・クンデラという小説家が好きでチェコに来ました。少なくとも公式にはそういうことになっています。彼はチェコのブルノという街出身で、いまはフランスに住んでいます。代表作はやっぱり『存在の耐えられない軽さ』かな。すごくおもしろい小説です。もう80歳を越えたおじいちゃんですが、今年なんとまた新しい小説を出しました。なかなか頑張りますね。ぼくはまだ読んでないですが。
 クンデラをはじめて読んだのはもうかれこれ5年前。じつはヴェネツィアで読んだんですよ。というか当時はヴェネツィアに留学していたんです(つまり今回で留学は2回目なんですねぼく。このことはすごく大きいです。はじめてじゃないというのは)。でもじっさい、その時はクンデラを追ってチェコに来ることになるとは思ってもみませんでした。ただものすごい衝撃を受けたことだけははっきり憶えています。その衝撃が音叉の震えみたいにまだじんわり続いてるんですね。それがなければチェコになんて来てないです。
 
 こっちではカレル大学というところに所属しています。いちおうチェコでは1番有名な大学です。中央ヨーロッパで1番古い大学でもあります。創立1348年。カレルとは、有名なカール4世のこと。チェコ語でカレル。英語でカール。フランス語ではシャルル。ちなみにまだ授業には1度もでていないので、どんなところなのかはまだよくわかってません。

 …自己紹介はこのへんにして、チェコに到着して間もないあたりのことを書きましょうか。

 15日、空港にはあるチェコ人女性が車で迎えに来てくれました。彼女は本名ミハエラ、愛称ミーシャといって、ぼくと同い年で、背が高く(たぶんぼくよりも高い)、髪の長い、顔立ちの整った少しシャイな女性。じつはぼくの所属する学部にはチューター制度というものがあって、留学生ひとりにつきチェコ人学生がひとり、チューター(世話係)としてバディーを組むことになっているんです。それでどうやら有り難いことに彼女がぼくを選んでくれたというワケ。日本文化に興味があるらしく、プラハ空港からぼくの寮までの車内では、宮崎駿とか押井守とか黒澤明の映画の話題に花が咲きました。
 次の日(16日)もたしか、ミーシャといっしょにいたと思います。寮での手続きなど、事務的なことはぜんぶ彼女にまかせっきりでした。なんせ寮のレセプションは英語が話せないんだから。先が思いやられます(ちなみにぼくはまだほとんどチェコ語がわかりません)。手続きが終わったあとはふたりで街に繰りだしました。たしかその時こっちの携帯を買ったのかな? ZTEという会社のもの。スマホなんだけど、日本円で1万円もしなかったですね。安い。
 携帯のあとは、チェコの伝統料理が食べられるレストランへ連れて行ってもらいました。地下は洞窟のような内装の小洒落たお店。おいしいチェコビールとスヴィーチコヴァ・ナ・スメタニェ(野菜とサワークリームを煮込んだソースを牛肉にかけた料理)を食べながらミーシャと話していると、突然、彼女の口から驚きのひと言が。
「私の夫もじつはカレル大の学生で……」。
そう、彼女はすでに結婚していたのです。学生結婚。しかも話をきくと、ちょうど三ヶ月まえに! 旦那さんはニーチェを勉強していて、黒澤映画をすべて観ているそうです。いやはや、興味ぶかい。でもショックはショックでしたね、やっぱり。だって男だったら誰だってすこしは期待するでしょう(じっさいチューターとつき合いはじめるということは珍しくないらしい)。まぁ致し方ないけど、ちょっとぼくの期待は裏切られるのが早すぎました。最近、まわりの女の子の結婚やら婚約が増えてきたんですが(そういう年齢です)、まさかチェコまで結婚ラッシュの波が追ってくるとは。
 ミーシャとは、今後は家族ぐるみのつき合いになりそうです。
 

(写真はプラハでほとんど最初に撮ったもの。ほんとうにとりとめもない雑記になってしまいましたが、今日はこのくらいでお許しください。それではまた。)