2014年11月30日日曜日

日本人にとって外国語とはなにか 〜わたしの言語図〜


 昨日、夢のなかではじめてチェコ語を話した。記念すべき日だ。

 ぼくは地元である神戸の田舎にいる。天気は晴れ。自宅から急勾配をくだって最寄りのバス停へむかう緑道を歩いていると、なぜか(むろん現実にはありそうもないが)観光客らしい大柄の白人男性4人組と出会う。彼らは道に迷っているようなのだが、どうやら英語をほとんど話せないらしい(これもあまりありそうにない)。"Where are you from?"がやっと通じたところで、彼らがポーランドの出身だということに気づく。そう知るがはやいが、ぼくは目を輝かせてチェコ語で話しだすのである。むろん流暢にしゃべれるはずはないのだが(そもそもぼくの今のチェコ語力では「流暢なチェコ語」を夢のなかで表現することすら困難である)、極東の島国でチェコ語が使える機会をみつけて嬉しくなり(ポーランド語とチェコ語はおなじ西スラヴ語群に属しており、お互いかなりの程度で意思疎通ができる)、片言のくせにとくに物怖じすることなくチェコ語をしゃべっていた。誇らしい気持ちで、ぼくは無事かれらを目的地に送りとどけることに成功する。

 ちぐはぐな夢である。舞台は日本。しかも神戸の田舎。言語はチェコ語。しかも相手はポーランド人。でもこのちぐはぐさが、現在のぼくの状況をうまく表現しているといえなくもない。

 授業ではチェコ文学を英語で読んでいる。クラスにチェコ人はひとりもおらず、代わりに英語のネイティヴが幅を利かせている。フランス語を勉強しているのに、フランス人とは英語で話す。でも部屋に帰ると偉そうにフランス語でチェコ出身の作家クンデラを読み、偉そうにイタリア語でプラハについて読み("Praha magica")、偉そうにスペイン人と英語でアメリカ人の悪口をいう。チェコ語を話そうとすると、いまだにイタリア語がしゃしゃりでる。

 はっきりいって、頭のなかはもうごっちゃごちゃである。

 しかも残念なことに、ぼくはいわいる「言語好き」ではない。世の中にはほぼあらゆる言語に、というか外国語そのものに汲めども尽きぬ興味があり、その習得に尋常でない熱意をもち、おかげでいくつもの言語をいとも短期間に習得できるというような人間がいる。残念ながら、間違いなくぼくはそういうタイプではない。外国語それじたいに関心をもったことはないし、言語学習がぼくにとって純粋な喜びであったことは一度もない。ぼくが積極的に「選んだ」といえる言語はイタリア語だけで、ほかは完全に、身も蓋もない言いかたをすれば、「なりゆき」である。
 なりゆき。もちろん悪い意味じゃない。むしろ「なりゆき」以上に自然な言語学習の流れはないとすら思う。だが同時に、日本人であるぼくがこのような「なりゆき」をもつこと自体、ひとつの奇跡といっていいぐらいだとも思う。なぜなら、ふつう日本人が外国語を勉強しようというとき、そこにはどんな「なりゆき」もないから。考えてみれば不思議なことだが、英語を勉強する「なりゆき」すら、ほとんど意識されていないはずだ。ある外国語を話すことがなぜある外国人にとって「当たり前」であったり「必要」であったりするのか、学校の先生はぜんぜん教えてくれない。 

 最後に、言語について大事なことをもうひとつ。こういう環境で暮らしていると、じぶんにとって母語がいかに大切なものかがよくわかる。日に1度は日本語を読まないと落ち着かないし、2・3日も日本語を話さないと、文字通りじぶんがじぶんでなくなってしまうような気がする。一昨日もそんな気分になって日本人の友人たちに救援をもとめた。喜ばしいことに、最近ぼくはチェコにあって完全にビール中毒なのだが、母語もお酒とおなじく禁断症状があるらしい。

 ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアは、かつて「わたしの母国はポルトガル語である」と言った。もとはといえば大航海時代に根のある言い回しらしいが、ペソアの意図はその時代から遠いところにあるように思う。無限の海を越えていく広さとしての世界言語ではなく、むしろぎりぎりで大地にとどまる狭さとしての国語。
 日本語以外にぼくを日本を繋ぎとめているものなんて、じつはほとんどないんじゃないか。最近は、そんな気さえする。



(写真はレトナー公園。こちらはもうクリスマスのイルミネーションがはじまっています。)

2014年11月22日土曜日

アウシュヴィッツの肩すかし


 更新が滞ったのには理由がある。先週は15日から17日までポーランドを旅行していたので、その準備などもあって、記事を書く時間がなかったのだ。むこうではクラクフに2泊したのだが、旅の目的はもっぱらアウシュヴィッツだった。

 アウシュヴィッツ。世界中の人間が、ここで何が起きたか知っている。他の観光客の例に洩れず、ぼくもこの場所について何を知っていて、何を知らないのかを確かめるためにアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪れた。
 11月17日月曜日。とても寒い日だった(最高気温が4℃だったらしい)。雨にこそ降られなかったが、始終どんよりしたぶあつい雲のした、深い霧につつまれ凍えそうになりながら、午前11時から午後4時半まで、ほぼ休憩なしで歩きつづけた。この日の寒さと疲れこそが、日々ぼんやり暮らしているぼくとアウシュヴィッツを繋ぐ唯一のものであるように思えた。ぼくをこの地に呼びだした当のものが、ここにはないという気がした。

 だがじっさい、今よく考えてみても、アウシュヴィッツとぼくのあいだには何かしら縁があるはずなのだ。

 ひとつ前の文章でも触れたが、ぼくとイタリアを引きあわせた直接的なきっかけは、13歳のときに観たロベルト・ベニーニの映画『ライフ・イズ・ビューティフル』だった。これはビルケナウに強制収容されたイタリア系ユダヤ人の家族の物語。映画のなかば、収容所の現実の過酷さから息子ジョズエを守るため、陽気でおしゃべりな父グイドはある嘘をつく。ここで行われているのはとてつもなく大規模なゲームで、いい子にして、泣いたり、ママに会いたがったりしなければポイントがもらえる。ゲームだということは知らないフリをしなくちゃいけない。1000ポイントたまったら本物の戦車に乗って家に帰れるのだ、と。

 これに加えて、ぼくにチェコ留学という数奇な運命をもたらした(お馴染み)ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』。おもに1968年の「プラハの春」を背景に書かれたものだが、じつはこの本のなかにも、語り手「私」による強制収容所への言及がある。
 そう昔の話ではなく、私自身も信じられないという感覚をおぼえながらこんな事実に驚いた。ヒトラーに関するある本の頁をめくっていたとき、彼の数葉の写真をまえに私は感動していたのである、その写真が自分の幼年時代のことを思いださせてくれたのだ。私は戦時中に幼年時代を過ごし、家族の者たちが何人もナチスの強制収容所で死を迎えていた。だが、自分の人生の過ぎさった時間、もう二度ともどってこない時代を思いださせてくれたヒトラーの写真に比べれば、彼らの死などなにものだったろうか? 
(『存在の耐えられない軽さ』西永良成訳、河出書房、2008年) 
 この部分は語りの技法的にみてもおもしろいところだが、問題はやはり、「私」が言っていることの内容だ。じぶんの家族を強制収容所へ送り込み、彼らを殺した「張本人」であるヒトラーの写真をみて「感動」するということなど、あってよいのだろうか? 少なくとも、およそ世間一般のモラルに反していることは確かだ。しかし語り手「私」は、このヒトラーの写真に感謝すらしてしまう。「私」にとって子供時代の記憶はかけがえのないものであり、この写真がなければおそらく永遠に思いだすことのないものだった。そのかけがえのなさ−−つまりその重さ−−を前にすると、いわばすでに「歴史的事実」となった家族の死は後景にしりぞき、ぼやけて、軽いものとなってしまう。
 ここには強烈な価値観の反転がある。ほんらい誰かの死、あるいは過去の事実ほど「重い」ものはない。そういったものには変更が効かないので、ぼくたちはただそれを黙って受けいれるしかない。しかし上の語りで「私」は、重いはずの「死」や「歴史」より前に、現在という寄る辺ない時間に生きる個人が持つもののうちでも、ひときわ頼りない「記憶」を置くのである。

 クンデラの「私」はその挑発的な語り口からしておおくの読者の反発を誘発するのだろうが、じつは『ライフ・イズ・ビューティフル』も、一部の作家や批評家から痛烈な批判を受けている。アウシュヴィッツという筆舌に尽くしがたい歴史の現実を矮小化し、いわば「ポップ」にしていると。

 現代イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、『アウシュヴィッツの残りのもの』という(むずかしいが)すばらしい本のなかで、強制収容所からの生還者の「証言不可能性」について書いている。ごく簡単にいえば、アウシュヴィッツやビルケナウを生き延びた人間が経験したことがらはあまりにも「非現実的」なので、言葉にすることはできない(し、仮にできたとしても誰にも理解されないだろう)ということだ。
 たしかに世の中には、言語化されること、理解されることを拒む事実が存在する。でもだからこそ、言葉が必要なんじゃないだろうか。言葉にならないかもしれない、理解されないかもしれない。そこに言葉の可能性がある。そもそも言葉がないのであれば、そのすき間にある「言葉にならないもの」もないのだから。

 たぶんぼくは、クンデラやベニーニの「軽さの技法」に、ずっと惹かれつづけているのだろう。重いものを重いものとして示すこと、それはすごく大事なことだが、しかしそれだけじゃなにかが足りない。そういう「足りない感じ」を、アウシュヴィッツの博物館に感じてしまった。



(写真はビルケナウ。重いですね。軽くしきれませんでした。まだまだ力不足です。)

2014年11月9日日曜日

カシウス礼讃/文化について

 
 今日(8日)はとても良い日だ。
 とくに何があるわけでもない。ただ天気が良いのである。それだけのことで、こころが跳ねあがる。
 晴れの日のすくない土地に暮らしていると、ときどきこういうことがおきる。まだ冬は始まったばかりで、これからどんどん寒さが厳しくなっていくというのに、なんだかイースターを先どりした気分だ。
 どうしてもじかに陽の光を浴びたくなって、急いで部屋をでる。The Beach Boysの"Pet Sounds"を聴きながらトラムに駆け込んだ。
 寮からほど近いレトナー公園のベンチで本を読み、座り疲れたので街のカフェにでも移動しようかと思った矢先、財布を持ってくるのを忘れたことに気がついた。仕方なく寮にもどってきたのだが、それでも気分がよいのでこれを書いている。

 じぶんのマヌケ加減に呆れつつMalostransá駅でトラムを待っていると、カシウスがニコニコしながら35番のトラムから降りてきた。地図に載っていない番号のトラムだ。

 このブログに登場するのは2回目だが、カシウスはぼくのルームメイトである。カシウス・マヌエル・ペレーズ。スペイン人だが、きれい好きで、何かにつけてぼくよりもよっぽどキチンとしている。机のうえもいつも整理されていて、ぼくも幾度か彼の整頓術を盗もうとしたが、実りは少なかった。
 カシウスは数学を勉強している。それなのに(と言わざるを得ないのが哀しいが)、たくさん小説を読んでいる。音楽の趣味もいい(お気に入りはGorillazとGould。これだけでもう言うことなし)。絵画も好きで(ゴヤについて色々教わった)、今日もひとりでプラハ城近くの国立新美術館に行ってきたようだ。本業の数学もたいしたものらしく、何年か前にスペインの数学オリンピックで5位になった。

 ある日の午後、彼はちいさな花鉢を抱えて帰ってきた。ピンクのかわいい洋菊である。どうせ女の子にでもあげるのだろうと思ったら、なんとぼくらの部屋のために買ってきたのだという。枯れそうになった花をみて彼は哀しみ("Shit, I'm sad. It's dying")、元気になった花をみて嬉しそうに笑った("I'm proud of her. It survived.")。

 カシウスと話していると、世界が多様であることに気づく。というより、世界が一様ではないということに気づく。世界が一枚の絵だとすると、それはけっして一色で塗られていない。とはいえ、ボーダー柄に塗られているわけでも、世界地図のように国ごとに色分けされているわけでもない。あえていえばどの部分にも色の濃淡があって、マーブルのように溶けあっている。そんなイメージを与えてくれる。

 と、言葉にするのは簡単だが、この感じ、じつはなかなか掴むのが難しいんじゃないかと思う。ぼくも日本を離れるまでは世界について違うイメージをもっていた。
 そういえばカシウスにもこんなことを言われた。
 −−でもさテリー、お前、高校生とかそのくらいのとき、将来イタリア語とかチェコ語を勉強することになるなんて思ってなかっただろ?
 −−そうか、イタリアは『ライフ・イズ・ビューティフル』、チェコは『存在の耐えられない軽さ』がきっかけか。そんな風に留学先を決められたのは良いことだね。すごく文化的で。

 (小説や映画などの)「文化」的な理由で留学先をきめること。あるいは単純に、ある国へ憧れをもつこと。これは日本人にとってはわりと普通のことだ。でも、たしかどこかで内田樹も書いていたが、たとえばヨーロッパの人間にとってはすこし不思議なことであるらしい。なぜなら彼らにとって(少なくともヨーロッパ圏内の)文化はいつもより具体的なかたちで、わかりやすく言えば人間のかたちをして現れるので、ある国のイメージを「文化」で型どる必要がないから。逆にいえば、日本人は「文化」と呼ばれるものを通してしか海の外と繋がれない変わった国民だということだ。

 文化というとどこか深いものだと考えられがちだが、映画を観たり小説を読んだり音楽を聴いたりするだけで底がみえてしまうようなものが文化なら、それはつまらない、浅いものだと思う。カシウスと話していると、そんなことを考えさせられる。

 ただやはり、ステレオタイプとは言わないが、身体に刻みつけられた国民性のようなものはじつに存在する。夜おそく部屋のドアを開け、読書灯の明かりのなか女の子とイチャつくスペイン人を見るたび、そう確信してしまう。

 

   (写真は上述のレトナー公園。こんな天気が続いてくれればいいんですが……)

2014年11月3日月曜日

クトナー・ホラ:僧侶か鉱夫の街

 
 50メートル先がまったく見えないような深い霧が街を包んでいる。といっても、これはとくに珍しい光景ではない。プラハの午前はだいたいこんなものだ。午後1時から4時くらいまでの間、気が向けば太陽が顔をだす。昨日もそうだった。
 
 昨日(11月1日)はLに誘われ、クトナー・ホラという街に行った。10時にHlavní nádrazí(メイン・ステーション)に集合。L以外だれが来るのかも知らない。どこに、誰と行くのかすらわかっていなくても、誘われたらなるべくホイホイ着いていくこと。ほんらい出不精なぼくが海外で交友関係を築くうえで自らに定めたルールである。
 Lは10分ほど遅れて知らない女の子とともにやってきた。プラハに滞在中の幼馴染みだという。Cも来るはずなのだが、トラムが渋滞に巻き込まれていているらしい。すでに乗るべき列車はホームに着いている。発車のベルが鳴るなか、ギリギリでCが到着。顔にはまったく血の気がない。よっぽど焦っていたのか、と思ったら、よく見るとゾンビのメイクであった。前日はハロウィーンだったのだ。メイクを落とす時間もなかったらしい。

 クトナー・ホラは銀の発掘で大きくなった街である。13世紀後半に銀鉱脈が発見されて以来、良質なグロシュ通貨(ボヘミア王国の通貨)の製造を担い、16世紀まではプラハに次ぐ繁栄を謳歌した。1726年に造幣局は閉鎖されたが、現在は旧市街とそれに隣接するセドレツ地区が世界遺産に登録されている。
 この街は他のヨーロッパの街とおなじく、ペストによっておおくの死者を抱えこんだ。さらに三十年戦争で甚大な被害を被ることになる。そのときに生まれた何万人もの死者が、セレドツ地区の有名な墓地教会に眠っている。13世紀後半、セレドツの修道院長が、エルサレムにある聖墓からひとにぎりの土を持って帰り、この地にまいた。それ以来この教会は聖地とみなされ、埋葬を望むもの者たちの遺体が中央ヨーロッパ中から集まったらしい。この教会の納骨礼拝堂をみるのが今回の旅の主要な目的のひとつだった。

 墓地教会をことさら有名にしたのはその内装である。教会内部はなんと4万人もの僧侶の骨で飾り立てられている。シャンデリアからレース(?)から、装飾といえるものはほとんど人骨でできている。そのため見た目は礼拝堂というより洞窟といった雰囲気。
 しかし、正直にいって、ここは少し期待外れだった。観光客が多かったこともあるだろうが、陳腐な感じすらした。教会全体が「アート」になってしまっている。Memento mori? ほんとうに人の死を想わせたいのであれば、「アート」になりきらないものこそ示さなければならないだろう。プラハのシナゴーグも、プノンペンのキリング・フィールドも、まったく「アート」ではなった。そこには見るものと見られるものとの間に強烈な断絶があった。

 一番楽しみにしていた墓地教会に出鼻をくじかれ、肩をすくめながら低めのテンションで旧市街へと向かう一行。それにしても、なんだか人が少ない。店もほとんど開いていない。なぜだろう。考えてみると、今日はまだ日本でいう「お盆」週間で、多くのチェコ人は家族で親類の墓参りにいっていることに思いあたる。Putain! 耳馴れたフランス語のスラングが聞こえる。ガイドブックに載っているような店ですら堅く門を閉ざしていたので、しかたなくテキトーにはいったレストランで昼食をとり、聖バルボラ教会へ。

 この教会がすばらしかった。ぼくがチェコで見たなかでは今のところ一番好きな教会だ。アーチ型のフライング・バットレス(飛梁)が目を引く、均整のとれたとても美しい建物で、シンプルなベージュ色の外壁もよく街に溶けこんでいる。見ていてとても気持ちがいい。
 聖バルボラとは鉱山労働者の守護聖人であって、この教会はじつに彼らのために建てられたものである。建築資金についても、そのほとんどがカトリック教会からではなく市民によって調達された。教会内にはランタンを掲げた鉱夫の像や、貨幣を鋳造する職人たちを描くフラスコ画も見られる。Lはすこし照れながらお土産コーナーでポストカードを買っていた。

 鉱山労働。どうやらこれはチェコという国と深い関係がありそうだ。日本にも戦前は多くの鉱山があったというが、そこで働く人々がここでほど讃えられたことはおそらくなかっただろうし、日本の鉱山労働にはとにかく暗いイメージがつきまとう。しかしチェコ人のことを考えると──それこそ社会主義時代など、もちろん悲惨だったには違いないのだろうが──どうしても仕事のあとの美味しいビールが目に浮かぶ。地元のホスポダ(居酒屋)で、ドロドロになった男たちが、皮肉を言いながらも、がやがやとビールを飲んでいる姿が。

 ところで、この街の名前 Kutná horaの由来にはふたつの説があるとされている。Horaは山という意味なので、問題はKutnáのほう。ひとつはその起源を「僧帽 Kutten」にあるとし、ひとつは「採掘 Kutání」にあるとする。どちらが正しいのか、日帰り観光客の日本人にだってわかる。




(写真はヴルフリツェ川の岸辺から仰ぎ見た聖バルボラ教会。きれいなシルエットですよね。)