2015年9月1日火曜日

留学後記

 
 帰国してから2週間ほど経った。一昨日は国会議事堂前のデモにも行った。でもまだこの国には馴染めていない。
 そのことで逆に、プラハでの1年間がどれだけ僕のなかに浸透していたかということがわかる。

 今回の留学生活を包みこむものとして、7月のある情景が残っている。
 
 僕はプラハ行きのバスに乗っている。Úherské hradistěというモラヴィアのちいさな町で毎年開催される映画祭から帰る途中だった。IとAの恒例チェコ人カップルが誘ってくれた、くだらないものから古典的なものまで幅広いジャンルの映画が観れるイベントで、夜は安くて美味しい白ワインと(例のごとく)大量のビールを飲み、千鳥足でホステル代わりの学校まで歩き、教室の隅にある寝袋へもぐり込んだ。町で出会うのも同年代の若者がほとんどで、雰囲気はさながら60年代のヒッピーのキャンプのようだ。Iは僕がちゃんと楽しんでいたか不安がっていたみたいだが、大丈夫、ほんとうに楽しかった(というよりゴメンなさい、感情をうまく外に出せない僕が悪いんです)。Úherské hradistěで過ごした3日間は、僕にとってはちょっとしたユートピアだった。

 チェコという国が僕のなかに決定的に棲みついたのは、たぶんこの旅のあとからだったと思う。帰国の日が着々と近づいてきていたことも勿論あるだろうが、それ以上に、プラハとちがって外国人観光客がほとんどいない町で、チェコでできた友人と親密な時間を過ごせたということが大きかった。語学的にはまだまだで、彼らのチェコ語会話にはなかなかついていけなかったものの、この旅を終えてはじめて、この国にいくらか根を下ろしたという気がした。

 チェコでの1年間はほんとうに意義深いものだった。予習不充分の「飛び込み留学」だったが、その分、じぶんで発見する楽しみと、未知なものへの素直な驚きがあった。
 プラハという街自体にもなかなか言いがたい魅力があった。華々しい観光スポットがあるかと思えば、頭のイカれた浮浪者や、ヤク中の若者が集まる地区がある。青空と緑豊かな公園が広がるかと思えば、いつの間にやら妖しい夜になっている。この街の生活には、曲がりくねった路地や変わりやすい空模様にあわせて自分が緩やかに変化していくような、独特の感覚がある。

 しかしひとことで言えば、何よりあそこには自由があった、という気がする。束縛からの自由。これはなにも特別なことではなく、どんなところでも誰にとっても、長年住んだ土地はある種の束縛になる。母国から離れ、留学生のように期間限定で生活をすることに、束縛は存在しない。縛るものがあるとすればそれは本人だけである。ユダヤの格言がいうように、いくら旅をしてみたところで、自分自身から逃れられるわけではない。
 いずれにせよ留学の地では、つねに新しいものが待ち構えている。そして新しさの領域には、かならず自由がある。たぶん留学するということは、問いつめる未来も従うべき過去もないところで、浮遊するということだ。日本という国をわりと疎遠に感じる今思いかえすと、プラハ行きのバスでの印象がこれほど記憶に残っているのもこの浮遊感が関係しているのもしれない。

 どこまでも平らな草原へ落ちていく夕焼けに、ザアザアと雨が降る。空がすっきり洗い流され、待ちぶせていたように虹が架かる。冗談みたいな光景に、一瞬じぶんが何処にいて、何処へむかっているのかまったく分からなくなる。電灯の消えた車内は暗闇にすっぽり包まれていて、外の世界からは強いコントラストを生むオレンジ色の光だけが入ってくる。乗客はみんな興奮気味だ。僕もふしぎな感動に打たれながら窓のそとの空を眺めた。

 人生は今、はるか上空を飛んでいる。まっすぐ、脇目もふらず飛んでいる。僕はといえば、それを他人事みたいにぼうっと見上げているだけである。



(写真は帰国前日に撮ったもの。ありがとうプラハ、また会う日まで!)

 と、今までこのブログを読んでくださった読者の皆さん、ありがとうございました。とりあえずここで一旦区切りをつけます。が、プラハにはまた戻る予定ですし、なにか別の形でネットに文章を書くかもしれません。なので、その時まで! 

2015年5月26日火曜日

続・偶然について


 昨日はとくになんの予定もないはずの日だった。
 というか、入ってるはずの予定を忘れて、いつも通りボケボケしていた。

 その予定とは、日本から来た5人組のバンド(宣伝したい気持ちはあるが、とりあえず以下Kとする)のライブイベントだ。チェコ人で日本文学を勉強している友人Iのお兄さんSがイベントのマネージャーをやっていて、その関係で、数ヶ月まえから誘われていたのだった。
 いきなり冷え込んだということもあって、持ち前の怠惰さに負け、危うくすっぽかすところだったが、夜9時前、なんとか踏ん張ってライブハウスへ向かった。Vltavskáという駅の近くにある、パッとみた感じでは廃墟のようなところだ。すでに建物の前には酒とタバコとロックンロールな若者たちがたむろしている。
 
 なかへ入ってみるとかなり大きなライブハウスで、すでにチェコのバンドの演奏がはじまっていた。今日のライブに出演するバンドはKを含めて4つで、おそらくそれは2番目のバンドの最後の曲だった。たいして期待していたわけでもなかったのだが、意外と音はよく、まぁ250コルナ(1200円ちょい)払った甲斐はあったな、と思いながら聴いていた。
 Iとその彼女のAと合流し、いつものようにとりあえずビールで乾杯し、次のバンドの演奏がはじまるまで、いったん外にでて雑談。Kのメンバーらしき人たちが階段に座っているのが見える。プラハで、しかもここのように地元の人間しかこない場所にいると、日本人というだけで十分に「浮く」のだが、ヒッピー風の特徴的な格好をしている彼らは、相当に目立っていた。そのなかでもとりわけ目立つ人がいて、やたらと知り合いに似ているなと思った。

 休憩が終わり、Kの演奏がはじまる。とてもライブ映えするパフォーマンスで、ジャンルでいうとサイケデリック・ロックに入るだろうが、ジャズのリズムをうまく取り入れていたのが印象的だった。プラハの観衆も盛り上がり、大きな歓声があがる。ぼくも日本人としてなんとなく誇らしい気分になる。
 しかし、ステージの右端にいたギタリストの動きを見ているうちに、いや、やっぱりぼくは彼と知り合いなんじゃないかと思いはじめした。あの顔と雰囲気は、どう考えてもDさんじゃないか、と。演奏中だったが、暗がりのなかで急いで携帯をとりだし(失礼!)、ネットで調べてみた。すると、やはり、そうだったのだ。「Dさんだ!」嬉しくなったぼくはチェコ人カップルにも報告し、残りの演奏をそれまでとは違った感慨をもって聴いていた。

 Dさんは、ぼくが所属していた大学のゼミの先輩である。2・3年上の学年だったので、ともに勉強する機会はほとんどなかったのだが、ゼミや打ち上げで何回か会ったことがある。でも、ちゃんと話したことはなかったと思う。ただ、顔と名前が特別に覚えやすかったということと、たまたまぼくがクンデラの『存在の耐えられない軽さ』(またかよ)のプレゼンをしたときにゼミに遊びに来ていて、「おもしろいということはわかったんだけど、たぶん読まないと思います」というような発言をしていたので頭に残ったのだ。
 とはいえ、ぼくは彼が音楽をやっているということすら知らなかった。ましてや20以上の都市をまわる大規模なヨーロッパ・ツアーを敢行しているなんて。

 ぼくのことを憶えているかどうか定かでなかったが、一言声をかけて確かにわかったことは、Dさんとぼくを繋ぐこのゼミが、ぼくにとってはもちろん、きっとDさんにとっても、すごく大事なものだったということだ。ゼミの名前を持ちだしたときの彼の反応は、年下のぼくが言うのもなんだが、子供のようだった。

 このゼミが存在せず、先生と出会っていなければ、ぼくは文学を勉強してなんかいないし、ましてやチェコになんか来ていない。シタールとギターの心地よい轟音のなかから、ゼミの仲間たちや先生の顔が浮かんだ。「おい、S(ぼくの苗字)、いいのかそんなんで! ダメじゃないか!」 うかうかとプレゼンなどしてしまった時は、よくこんな風に先生に叱られた。


 それにしても、偶然というのはほんとうに恐ろしい。

 まったく予想もしていなったことが、さも当然のような顔をしてあなたの家に踏み込み、お茶の間あたりにドサッと居座る。あまりに目立つ、あまりに場違いなそいつのせいで、ある日を境に人生の風景がガラっと変わる。ということだってある。

 学者になるにしてもじぶんで何か書いていくにしても、今どき文学の世界に生きるのは大変だ。音楽の世界は、もっとそうだろう。「マトモな」神経じゃやっていけない、とすら言えるかもしれない。どうにかして現実以上のものを見つけだし、それに頼らなければいけない。
 だからぼくもこういう偶然をつかって、ぼんやりとじぶんのこれからを見立ててみるのである。
 

(写真はライブハウス前での一コマ。留学生活もあと3ヶ月弱。頑張ります。)

 

2015年5月20日水曜日

雨の指をもつ街


 雨が降っている。

 チェコの代表的な詩人ネズヴァルに『雨の指をもつプラハ』という詩集があるが、この街はほんとうに雨がよく似合う。
 もう5月も終わりに向かっていて、本来なら春まっさかりなのだが、それでもときどき雨が降ると、ああ、プラハは雨の街だった、と、思いだす。

 夜もそうである。プラハは昼間より夜のほうが良い。日没前のマジックアワー、空全体が少しのあいだ紫に染まり、その面影を引きずりながら、ひっそりと夜が訪れる。

 雨と夜。濡れた石畳みの舗道が橙色の街灯に照らされると、なんとも哀しげで、それでいてなんとも妖艶な雰囲気をかもしだす。「雨の指」が、プラハを撫でるのだ。ぼくの知る限り、こういう街は他にない。

                 * * *

 3ヶ月以上ブログの更新をサボっていた。チェコ語とじぶんの研究に追いまわされ、まったく時間がとれなかった。ここでの生活にも慣れ、前学期ほど刺激がなかったということも確かだ。
 それでも幾つか書くべきことはある。学部時代のゼミの後輩I、そして両親と妹の来訪。ブタペストとチェスキー・ラーイ(ボヘミアの天国!)への旅行。あとは先週の音楽祭「プラハの春」参加。
 新しい出会いもあった。エラスムスでフランス人のJ、タンデムパートナーのチェコ人B。カレル大日本学科の学生IとAのカップル。さらにクンデラ専門の教授で今や「きみ呼ばわり tykat」のČ教授。前期にくらべるとかなり「チェコ寄り」なラインナップである。ある人とはすぐに仲良くなったが、ある人からはすでに逃げ出したくなっている。 
 いずれにせよ、今期はチェコ語にどっぷりだった。授業は毎日、すべてチェコ語(語学)かチェコ語で行われるもの(文学)だったし、学校以外でも意図的にチェコ人の人たちと絡むようにした。自然とエラスムスの友人と出歩くことは少なくなったが、こればかりは仕方がない。身体はひとつしかなく、学期はふたつあって、しかもぼくは同じことを繰り返すのが苦手なのだから。
 ちなみにルームメイトのカシウスにはついに決まったパートナーができ、それはやっぱりいいことだと思った。

 そんなこんなで春学期も終わろうとしている。エラスムスの友人も、日本人の友人も、大抵はあと1ヶ月ほどでそれぞれの国へ帰っていく。彼らがいなくなったあとの暮らしはあまり想像ができないが、たぶん、かなり、静かなものになるだろう。でも、もしかしたら、さらにビール漬けの日々になるかもしれない。

 言い忘れていたが、プラハの春は美しい。日は長く、9時くらいまでは明るいし、なんとたくさん桜も咲く。近くの公園でビール片手にピクニックを楽しむ人も多い。ぼくの住む寮の裏にはブジェヴノフ修道院という緑ゆたかな庭園をもつ素晴らしい修道院があるのだが、天気の良い日にここで2・3時間本を読むのが最近の大きな楽しみである(比べられても迷惑だろうが、個人的にはこの場所はヴェネツィアのザッテレに匹敵する)。
 とはいえ、このぽかぽかした春がプラハの「真の姿」かと言われると、それはすこし違うように思う。この街の魅力の底知れなさは、陽の光では照らし出せないところにある。

 最初に触れた『雨の指をもつプラハ』に収められたある詩は、このように終わる。

上のほうをさす指 
黄昏の手袋をしたティーン教会の 
キクラゲのような雨の指 
涜された主人の指 
ひらめきをくれる指 
関節のない長い指  
この詩を書くわたしの指 
  (Vítěslav Nezval, Město věží, 拙訳) 

 残りすくない留学期間も、週に1度くらいは雨が降ってくれればいいなと思う。


  (写真は旧市街広場。奥に見えるのがティーン教会です。)  

2015年2月9日月曜日

エラスムスの最期(Part2. ヴェネツィア編)


 この街について書けることは少ない。

 書きたいことは山ほどあるが、言葉にするのがむずかしい。ヘタな言葉じゃまったく歯がたたないような、そんなところなのである。

 ぼくがヴェネツィアにいたのは2009年から10年にかけてのおよそ1年間。だから、だいたい5年前ということになる。
 そのころのぼくはまだ20代になったばかりで、世界は希望に満ちあふれ、あらゆるものは新鮮な光に包まれていた──というのはウソだが、どこからどう見ても現実ばなれしたこの島ですごした時間がぼくのふらふら病に大いなる拍車をかけたことは間違いない。ヴェネツィアに行ってなければ、いまごろプラハにいることもなかっただろう。たぶん。

 留学中はIsora di San Servolo サン・セルヴォロ島というところに住んでいた。そう、島に住んでいたのである。もちろんヴェネツィア本島のことではなく、ちいさな、ほんとうにこぢんまりとした、15分もあれば歩いて1周できるような島だ。ぼくらは島に住み、島で勉強した。じつはこの島全体が留学先の大学の敷地だったので、そこには校舎だけでなく、元精神病院だった寮兼ホテルや、ちょっとした運動場や、なにに使うのかよくわからないイベントスペースや、マズくて高い食堂や、わりと感じのいいバールがあった。

 時は下って2015年の1月2日。

 プラハでの年越しそうそう、ぼくはTとともにヴァネツィアに渡った。3日間の滞在、いわば里帰りの旅である。Tはセルヴォロ時代のルームメイトだったから、もちろんこの小島にも立ち寄った。じっさいにはあまりにも不便なので(本島との唯一の交通手段である水上バス vaporettoが、なんと1時間に1本しかなかった)、当時は半年で本島に引っ越したのだが、この島での思い出はどうしようもなく身体に刻みこまれている。たとえば真夜中に忍び込んだ教室。そこで観たオペラ。開け放った窓からアドリア海への立ちション。
 いくつかの店がなくなったり違う店になってたりはしたものの、ヴェネツィアは5年前となにも変わっていなかった。相変わらず美しかった。ただ、ぼくが5年間こころに思い描いていたイメージより、本物はずっとちいさな街だった。道はより狭く曲がりくねり、建物はより低くせめぎあっている。まるでミニチュアのなかを歩いているようだった。ヴェネツィアは、じっくり時間をかけて着々と、ぼくの頭のなかで1.5倍ほどの大きさにふくらんでいたのだ。

 ところで、この街についてイタリア人が話すとき必ずといっていいほど使われるフレーズがある。

 È diverso.

 今回はじめて出会ったイタリア人も漏れなくそう言っていた。簡単な言葉だが、日本語にはなぜか訳しにくい。英語にするとIt's different.となる。

 È diverso. ほんとうにそうなのだ。言葉の最高に精確な意味において、diversoなのである。なにか他のものから隔たっているということが美しさと結びつくということを、この島ほど強く訴えかける場所はない。

 異なるということは、孤独ということでもある。深い孤独は、おなじく孤独なものを引きよせ、ときには死を引きよせる(「ヴェニスに死す」のグスタフがそうであったように)。それほど大げさでなくても、この島に暮らしていると、だれもが時が止まったように感じるだろう。この島を動くのは、運河をながれる深緑の水と、なにか語りたげに吹きさるアドリア海の風と、その音に耳を傾けるあなただけ。イタリア本土からも孤立したこの島は、そこに住む者、訪れる者をひとり占めにしてしまう。

 この街では、ひとりひとりが否応なくヴェネツィアに向きあわされる。そうなったが最後、この街はあなたをけっして離さない。水と空気、ヒドいときには島の3分の1を沈めてしまう高潮 Acqua altaをとおして、それぞれのヴェネツィアを沁みこませてしまう。
 使い古された比喩でいえば、この島は、とんでもなくワガママで、独占欲旺盛で、それでいてどうしても憎めないファム・ファタールなのである。そして言うにおよばず、ぼくはいまだに彼女に振りまわされている。


(写真は夕刻のヴェネツィア。きれいですね。きれいなんです。今回はブログのタイトルに反して、堂々と浮気してしまいました。ごめんねプラハ!)

2015年1月29日木曜日

エラスムスの最期(Part1. 年越し編)


 なぜかここにいない人のことばかり書きたくなる。だれかがいなくなってしまったこと。いまそのだれかがいないこと。筆不精のぼくがなにか書く気になるのは、もしかしたらほとんどそんなことについてなのかもしれない。

 この1ヶ月で何人かの大事な友人に再会し、何人かの大事な友人がこの街を去った。ここずっとなにも書けなかったのも、そういうことで忙しかったからだ。ある人が目の前にいると、なかなかその人について書けない。別れが去ってはじめて、別れについて書くことができる。
  でも、いつも思うのだが、去ってしまったものについて書くのはぜったいに追いつけない相手にレースを挑むようなものなのだ。だからあまり差をつけられてしまわないうちに、再会のほうから書いていこうと思う。

2014年12月30日。妹とSの誕生日。
 夜8時頃、寮をでて、空港へむかう。日本から遊びにきたTを迎えに行くのだ。Tは5年来の友人。今はT市のシティー・ホールで働くオペラマニアだが、ともにヴェネツィアに留学した仲間であり、元ルームメイトでもある。
  そとは雪が降っている。澄んだ大気中でも白一面の道路でも、ところどころ凍った雪が街灯に反射して鉱石のように光る。最寄駅でバスを待つあいだ、粉雪が牡丹雪に変わり、傘に降る音もやわらいだ。
 じつはぼくの住む寮 Kolej na Větrníkuは空港に近く、バスに乗ると30分かそこらで着いてしまう(これだけが取り柄の寮である)。空港でさらに半時間ほど待つと、Tがゲートから出てくる。留学直前にも一度会っているので「感動の再会」というわけにはいかないが、なにより元気そうだ。その証拠に、顔が丸くなっている。

12月31日。大晦日のプラハ。
 この日の白眉はなんといっても街中で打ちあげられる花火だ。これほどまでにすごい花火は見たことがなかった。
  花火のクオリティーがすごいのではない。その数と、無秩序っぷりがすごいのだ。11時を過ぎたあたりから、いったい誰がどのように仕掛けているのかしらないが、とにかくランダムに、いたるところで打ちあがる。ふつうの爆竹もあるにはあるが、ほとんどは轟音をともなうかなり本格的なもの。しかも店の窓ガラスに直撃しようがお婆さんが驚いてすっ転ぼうがお構いなし。飛びかう悲鳴と歓声、通りを覆う煙、厳重に武装した警官、そして火薬の匂い。ふつう日本人がイメージする優雅な「花火大会」とはほど遠く、空気はむしろ戦場である。
 ぼくらはこの異様な雰囲気にアテられ、かんぜんに浮足だって、ムーステックに溢れる人々とともにカウントダウンし、屋台で買ったシャンパンで新年を祝う。どこから来たかもわからない外国人が(イタリア人がやたらといたのはたしかだが)笑顔でHappy New Year! と言ってくる。 海外での年越しはこういうところが楽しい。5年前のロンドンを思いだす。Šťastný nový rok! もちろんチェコ人の声も聴こえてくる。

 30分ほどカメラ片手にヴァーツラフ広場を練り歩いたあと、国民劇場のまえで仲の良い友人たちと合流。ドイツ人Aとその彼氏の同じくドイツ人M、イギリス人N、チェコ人Kとその彼女のイタリア人V、さらにチェコ人AとM。これにぼくたち日本人2人を合わせて計9人。けっこうな大所帯となった。
  ぞろぞろとトラムに乗り、ブルダヴァを越え、丘をすこしあがったカメニツカーで降りる。近くのパブに入り、いっしょにビールを飲む。われらがドイツ人カップルの飲みっぷりは流石なもので、重度の西ヨーロッパ人嫌いだと思われるチェコ人Aのメガネにも適った様子(「お前ら、おれが会ったなかで一番良いドイツ人だよ、ハハハハハ!!」「えっ、ほかのドイツ人? や、ドイツ人ってのはたいていどいつもこいつも……」)。
 その後、店にいた酔っぱらいと一悶着おこしてから、フランス人Chと合流するという名目でレトナー公園へ。昨日から残る雪でまっ白、深夜は3時を回っていたと思う。ものすごく寒い。さんざん彷徨ったあげくChに会うことはできず、悪天により美しいプラハの夜景をおがむこともできず、おまけに(一向に成長しない)ぼくはまたもや飲みすぎで吐くハメになった。

 朝6時ごろ、みんなにさよならを言うまえにひとり汚れた口を雪で洗う。丘のうえからかすかに見えるヴルタヴァが泪に滲む。バカにはちがいないが、なんとなく粋な気分で1日を終える。

2015年1月1日。元旦。
 目を覚ますと午後2時をとっくにすぎている。この日はミュシャ(チェコ語に忠実な発音では「ムハ」)の「スラヴ叙事詩」を観にいく予定だったのだけれど、時すでにおそし。茫然としつつも食欲には逆らえず、食べものをさがしに寮をでる。が、スーパーからカフェから、店という店はどれもしっかり閉まっている。しょうがないので部屋にかえり、クリスマス・プレゼントとして日本から送ってもらった即席麺を食べることに。「どん兵衛」と「ラ王」。立派な「年越しそば」である。なんとか胃を落ちつかせたあと、フランツ・カフカゆかりのカフェ・サヴォイまで足をのばし、お茶をする。正月から観光客まみれだが、さすがに良い店だ。カフェをはなれ、Tがカンパ美術館に行っているあいだ、ぼくは課題のエッセイを書くつもりでいったん寮へもどり(失礼!)、仮眠(失礼!!)。
 5時半ごろ、再度Tと合流し、予約してある行きつけのレストラン Konviktにむかう。Tにはここで筆者イチオシの「ブタひざ丸焼きVepřové pečné koleno」 を食べてもらった(猛々しくナイフのささったこの巨大な肉塊はぼくの大好物で、3日で2つ食べたこともある)。破裂寸前の腹をかかえて、つづくは市民会館でのニューイヤー・コンサート。ドヴォルザーク(チェコ語に忠実な発音では「ドヴォジャーク」)のスラヴ舞曲をぶっつづけで演奏するという珍しい公演だった。年明けから郷愁あふるるスラヴ的なものに触れることができ、感慨深かった。

 コンサートのあとTはまたKやAと会いたがったが、さすがにみんな二日酔い気味で、そとを出歩ける気分ではないらしい。というわけで、元旦の〆は、現代チェコを代表する作家ボフミル・フラバルが足しげくかよったことで知られるホスポダ、U Zlatého Tygraへ。ぼくの知る限りプラハで一番のビールをだす居酒屋である。
 「大」がつくほどの酒飲みのTも、ここのプルゼニュスキー・ブラズドロイには舌を巻いていた(ちなみにプラハ滞在中の彼のビールの飲みかたは常軌を逸している。席につくがはやいが500mlのビールをオーダーし、ウェイターが食事の注文をとるまえにそれを飲みほしてしまう。当然ながら、料理が来るときにはもう2杯目をなかば飲み終えている)。どうしたって観光客にしか見えない日本人ふたり組だが、地元のおっさんだらけの店内で閉店までねばり、部屋にかえって上機嫌で眠る。

1月2日。朝。
 Tとともに飛行機に乗ってイタリアへ。5年ぶりのヴェネツィアが待っている。


(写真は1月1日、餓死寸前の状態で撮影したもの。シリーズ「エラスムスの最期」、まだ続きます。)