2014年10月18日土曜日

外国で話すこと/外国で書くこと

 
 ぼくは話すことをどこか諦めてしまっているフシがある。

 話すことを諦めていることとはどういうことかというと、いきなり反語的な言いまわしで申しわけないが、なんでもある程度テキトーに話せる、ということである。ほんとうに話すべき内容を口に出さず、テキトーにカワセるということである。

 ぼくは昔から滑舌が悪く、子供のころはじぶんの名前すらちゃんと発音できなかった。スーパーマーケットなどでふらふらしすぎてよく迷子になってはサービスカウンターのお姉さん(あるいはおばさん)のところへ行き、妙に生き生きと迷子宣言をするのがぼくの小さいころの習慣だったのだが、そのときもじぶんの名前を正確にお姉さん(あるいはおばさん)に伝えるのにずいぶん苦労した憶えがある。
 加えて根がシャイなので、あまり長い間じぶんの下手くそな話に人の注目を集めたくない、という気持ちがどこかにある。だからぼくの発話スタイルはどんどんストーリーテラー/噺家型から遠ざかっていき、それとは逆の方向――強いていえばコメンテーター/野次型の方向――へ発達していった。

 もちろんこれは日本語をつかって日本人とコミュニケートする場合である。こちらでは、限られた語学力のために、日本語でやっているような高度な「カワシ技」は使えない。それにこちらの人間はあまりカワサれるのが好きではない。彼らの会話は(日本人のそれと比べると)基本的に直球であり、直球であるということは小細工が効かないということである。だからこちらもイヤでも正面きって話さなければならない。
 さらに彼らはそもそも「話すこと」そのものを、 非常に重くみている。これはこちらの人間の語学に対する取り組み方と日本人のそれを比べてみれば一目瞭然だ。
 たとえば英語だと、ふつう「あなたは英語ができますか?」と訊くときは、"Do you speak English?"という。誰もぼくが英語を読めるか、または書けるかを訊いてはくれない。ぼくはミラン・クンデラというチェコ語・フランス語のバイリンガル作家を研究しているので、そのことを話すと、フランス人の友人などはよく"So, you can speak French!"と言う。それに"No, I just can read it."と応えると、少し不思議な顔をされる。彼らにとって言語とは第一に「話すもの」、より適切に言えばオーラル・コミュニケーションのためのものだからである(だからたとえば哲学者ジャック・デリダはこのような西洋の音声中心主義を批判した)。逆にいえば、話せないと言語が出来ることにならない、ということだ。クンデラをフランス語で読めるのにフランス語がしゃべれないなんて変、なのである。そういえば数日前もスペイン人ルームメイトのカシウスに、決め台詞的に"Language is to be spoken."と言われて苦笑した。

 でもカシウス、そしたら書き言葉はどうなるの? きみの読んでるそのジョイスの短篇はどうなるの?  ぼくの書いているこの文章はどうなるの?

 当たり前のことだが、話し言葉には話し言葉の良さが、書き言葉には書き言葉の良さがある。外国で生活していると日本では気づかなかった話し言葉の良さにも気づくことができる。日本語ではとてもいえないことが平気でいえることだってある。
 それでもやはり、ぼくにとって言葉は第一に書かれるものである。"Language is to be written."
 話し言葉には迷いがない。それは一直線に、疑いなく受け手のほうへと飛んでいく。書き言葉にはいつだって迷いがある。読み手はそこにいない。そもそも読み手がいるのかどうかすらわからない。どんなふうに言葉が流れていくのか、読み手がどんな顔をしてそれを受けとるのか、書き手はいわば頭のなかで想像するしかない。
 
 今、ぼくは中心街からすこし離れた大学のキャンパスの、じぶん1人しかいないガラガラの教室でこれを書いている。大きな灰色のヒラメのような雲がちょうど窓の対角線上を泳いでいる。雲のしたにはなだらかな丘。そしていくつかの素朴な人家。右端にはプラハの町並みがチラっと見える。
 外国で、家の外で、何かを書くのはとても気分がいい。言葉が自然にでてくる気がする。この街には、数人の日本人をのぞくと、ぼくの書く文章の潜在的読者はいない。そのことが言葉をより素直なものにしてくれる。



(写真はペトシーンの丘にある偽エッフェル塔からの眺望。最近やっと生活が落ち着いてきた気がします。)


 

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